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「自己/当事者」の話。

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2018年4月の記事一覧

「エンパワメント」につながる聴覚障害学生セルフヘルプ活動とは?

宮城教育大学大学院修士課程に入学した私が1999年度から取り組んだ聴覚障害学生セルフヘルプ活動の話です。 同年度に、2つの学生団体を設立しました。1つは、障害学生支援になかなか着手しない宮城教育大学を変革することを目的とした「情報保障の会」。もう1つは、宮城県内の聴覚障害のある高校生・大学生のエンパワメント実践を目的とした「宮城県聴覚障害学生の会」です。 当時の聴覚障害学生は、長年の口話法主義によって親との信頼関係への“諦観”、教育機関や公共機関等の情報にアクセスできない

集団会話の「トピック」をめぐる聴覚障害当事者研究

私は、高校を卒業するまで「1対1会話」の世界を生きていました。 「1対1会話」というのは、複数の他者の音声日本語の発話を聴き取ることが難しいため、他者の口唇運動を一人ずつ読み取って発話内容を推測する方法(読唇)で話を聞く必要があったからです。 日本語は、聴覚で受信すれば50音に分けられますが、視覚で受信すると50音が15パタンになってしまい、いわば「同口異義語」のようになってしまうのです。例えば、「いう」「きく」「いす」「りゆう」「ニーズ」「しる」「ひる」「にく」「ひふ」

障害のある人同士の「差別」から学ぶ。

 これは私が高校時代に経験したことです。  当時、私は県立高校に在籍しており、クラス委員長を担当したりサッカー部に所属して活動していました。そのことを聞いた地元の聾学校の生徒が、私と話してみたいということで高校に来てくれました。  彼は日本手話で育ち、私は音声日本語で育ったので、同行した聾学校の先生が手話通訳を担当してくれました。授業参観の後で私と約1時間半ほど対談したのですが、彼にとっては思わぬ方向に向かってしまい、しまいには「差別されている」と感じてしまうほど落ち込む

「持つこと」と「あること」-人間性の回復-

ある大学生との対話。 障害のある子どもや大人の支援に取り組んでいるが、うまく支援ができないため、その問題を解消するための知識や技術を教えてほしいといいます。その問題を解消するといっても、その問題に対してどのような目的や価値を根底にするのかは一人ひとり異なります。つまり、ある知識や技術を選択するのは、それを選択してよいのだという何らかの目的や価値が潜在しているのではないか、ということです。 それで私は尋ねます。知識や技術を提供することはできるけれど、あなたはどのような目的や

日本手話の「言い直し」にみる「学習言語」

あるろう幼児がろう学校幼稚部年長児クラスで語ったエピソードの話。 日本手話と日本語の両方を身につける教育環境におり、日本語は単語(主に事物の名称)を指文字で適切に表せるようになりました。 ある日、ろう幼児が日本手話で自分がバッタのお店ごっこについて遊んだ過去経験を語りました。以下の内容は、ろう幼児が3分間報告した内容の一部。お客さん役の子どもがバッタのお店に来たので、バッタを売る担当の自分が希望は何?と聞いたら、小さくて茶色いバッタをくださいとのことだったので、そのように

「語り」とは零れ落ちるもの。

「語り」は、語ってほしいと言われてすぐできるようなものではないですし、ただひたすら待てば出てくるというようなものでもないと思います。 とりわけ、その「語り」が、語り手となる人自身にとってある一種の苦悩をもたらすような場合は。 その人が語る人になるというのは、「(あ、この人なら/この場なら)語ってもいいな」と「語る主体」になることを意味すると思います。 その人の「語り」を聴く人は、何かを「聴く」ことから始めるのではなく、その人が何かを語る主体になるまでの“身体”の変化(微

障害は「不便」?「不幸」?

A handicap is inconvenient, is not a misfortune, though. これは、誰もが知るヘレン・ケラーの名言。和訳は「障害は不便ですが、不幸ではありません」。 この名言は、良くも悪くも障害当事者が自分はいかに生きていくのかについて語ることを支配する言説になっているように思います。障害は不幸ではない、ただ不便なだけだ、それでいいんじゃないか、というふうに。現在もあちこちでこの名言を引用して自分の経験を意味づけて語る様子が見られます