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不思議にパリに繋がっていく話 その2

写真はパリ・セーヌ川にある自由の女神像。
この近くのアパートを借りるとき、朝のお散歩コースにあるんですよね。

さて、前回、大伯父から祖母、叔父、そして母までのパリのご縁を書かせていただきました。

そしていよいよ、私にパリがつながっていきます!

ご縁は突然にやってくる、電話一本で。

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写真はエールフランス航空の飛行機。私が最初の海外旅行、パリ行きで使った航空会社です。

さて、大学三年から四年に移ろうとしていた1月末のことです。
研究室も決まって、バイトでもしようかと思ってたとき、姉から突然電話が。
「ゆきちゃん、フランスへ行こう!」

何を突然言い出すんだこの人はと始めは思っていたのですが、よくよく聞いてみたら、3月に前回お話しした叔父が、再び長期間パリの大学で仕事することになり、せっかくなのでこの機会にパリに行こう!というコトだったので、せっかくなので渡航することになりました。

旅程は、同行する姉と友人に任せっきりで、私のリクエストは、当時から飲兵衛だったのでワインの街ボルドーに行きたいといったくらいだけ。
結局、パリ→ トゥール → ボルドー → アルル → マルセイユ → ニース → モナコ公国 → リヨン → パリ という長旅を鉄道パスで4週間近くかけてすることになりました。

当時飛行機代も渡航費も高く、貯めていたバイト代では足りないため、さらにバイトを増やし、渡航費を貯めた記憶があります。
つくづく若いから出来たのだと思います(笑)

パリまで遠い道のり

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32年前当時のパスポートの自分の写真です。間違いのない生意気さがにじみ出てます(笑)

パスポートを取得するのもとにかく時間がかかった上、さらに当時フランスはビザが必要で、またそれもフランス大使館に取りに行かないといけなかったんでこれもめんどくさかった。。。

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そして、エールフランス航空、当時ゴルバチョフ政権時代で空域が緩和されてたとはいえ、行きは直行便18時間、帰りはアンカレッジ経由24時間という、着いた頃にはまあまあヘロヘロになるという長旅でした。

よきも悪きもカルチャーショックの山

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写真はボルドーのぶどう畑。

パリに到着後、毎日毎日美術館巡り。中学校の時、図書館で貪るように見ていた貸出禁止の分厚い美術書にあった名画や、アールヌーボー、アールデコの建物や家具を見て、美への歴史の深さを身にしみて感じていました。
そしてたくさんの手芸用品やアンティーク達。。。大好きなものが身近で売っている幸せを噛み締めてました。

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反面、逆の意味でも驚きの連続でもありました。
まずは公衆衛生の意識があまりなく、ゴミと犬の糞がたくさん落ちた石畳の道。メトロ(地下鉄)や街中のスりの多さ。
そして何よりも一番驚き、辛かったのは、フランス語ができないことによってお店でパンや食料を売ってくれないことがあったこと。
数詞と挨拶程度しかできない外国人にとって、切ない扱いを受けることが、当時何度もあり、自分の不出来と言い返せない辛さで怒りがいっぱいでした。
それ以来、逆に日本に来る外国のお客様はなるべく親切にしたい!と思えたことは反面教師だったと思います(笑)

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写真は一番好きだったアルルの街。

パリに一週間滞在後、二週間かけてフランス一周するのですが、フランスの田舎はどの街もご飯も美味しいし、とても親切にしていただきました。
フランスは農業王国とよく言われる所以がわかるほど、食材も豊富で、毎日いろいろな町のビストロに行って、ワインとご飯を楽しめて幸せでした。
あーやっぱパリより田舎いいわあって(笑)
しかしなんやかんやでパリに戻り、さらにその後1週間パリに滞在します。

叔父は私たちの旅の後半にパリ入り。
その後、彼と一緒に行動を共にし、普段行けない高級レストランにも連れて行ってもらったりしてあっという間のフランス滞在は終わります。

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いきなり初めての海外で4週間も滞在し、しかもカルチャーショックだらけのパリに思いっきり良い印象が無くなってしまってて
「もうパリに来ることはあるまい」
と思っていたのですが。。。。。。。。

運命の女神様はこの20年後、再びパリに導き、そして毎年私をこの地に何度も通わせることになり、「パリ・マジック」という奇跡のような出来事を起こすようになるのです。

それはまた次回。

今回も読んでいただきありがとうございました。
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