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完璧主義なわたしの失敗談 ♯5感情をのせられない文字にはご注意を

どもどもORIGIN整体です。

30代に突入して価値観がガラッと変わってきて、昔と真逆の考え方してるなと思ったりします。それというのもたくさんの失敗を経験し昔はひたすら落ち込む、反省するの繰り返しだったのですが、ある日を境に失敗する→改善するには?と考え方を変えたところ失敗に対する恐怖とか不安が軽くなって失敗から勇気をもらえるようになりました。失敗は必ず起きるもので要はどう付き合うかという事をnoteを書くようになって再認識しております。

さて今日は20代の頃SNSで少し失敗した経験をお話していきます。当時mixi、facebook、twitterと全部アカウントを持っていて仲の良い友達とつながっていました。今でこそ皆色々なことを発信していますが、その頃は友達とのコミュニケーションツールの1つといった立ち位置だったと思います。ただ何を投稿すればいいのか?っていうのが当時も今もよくわかっていなくて特にtwitterに関してはその時感じたことをただ書くものと言ったイメージなのですがこれって「言う必要ある?」と投稿するたびに疑問を持っていました。そんなこと考えるやつはもともとtwitter使うのに向いてないのは間違いないですねw 

ある日のこと友達のツイートでこんな文章を見かけました「このバンドの新曲サイコーすぎる!」と。このバンドについては友達とカラオケなんかに行くと良く歌っていたし、歌詞、メロディ、歌唱力どれをとっても一流のバンドなのですがこのツイートをみて僕はこんな反応をします。「この曲ってそんないい曲かな?」なんの感情もなく思ったことを返信するとこんな風に返事が帰ってきました。「このバンドのなにを知ってるの?わざわざここで否定するのっておかしくない?」この瞬間しまったと思ったのを今でも覚えています。

こういう返事が帰って来るのって当然のことで、友達が最高!といったものに対してそうかな?って返すのは批判以外のなにものでもありません。ましてや直接本人に同意を求められたわけでもないのに反対意見を言うなんて、わざわざ言う必要のないことを本人向かって言ってしまっている。これ現実世界でいったら、ライブ終わりにめちゃくちゃ興奮して曲の感想言ってる人に対して「いやあの曲そんなに良かった?」ってわざわざ言いに行ってるのと同じことですかね。

本心としてはたくさん良い曲があるなかで今回の新曲よりも昔のあの曲とかのほうが自分は好きなんだよね!ってことを言いたかったのですが、言葉足らず、そして感情がのっていない文字情報だけでは真意を伝えることができませんでした。この時相手の視点からどうみえてるのか?を考えないと不快な思いをさせることになると気付きパッタリとつぶやくことをやめてしまいました。本人には後日本心を伝え今でも付き合いのある数少ない友達です。

開かれた場特にインターネットの世界では言葉は時に人を傷つける武器にもなると思っています。そういった責任も伴うので人に公開するnoteを書くと決めたときめちゃくちゃ迷いました。だけど誰かがみてるかもという意識で言葉を綴ることはなにも悪いことだけではないと思うのです。冒頭でも書いたのですがnoteを書くようになって自分の言葉はなんのためにあるのだろう?とふと考えます。だれかを幸せにもできるし、不幸にもできる。それだったらなるべく幸せになれるような言葉をかけたいなとインターネット上でも現実世界でも思うようになりました。

批判や否定は自分にとって都合がよくないことに対して言っていることがほとんどだと思います。だったら言葉のかけ方を変えるだけでいいのだと。「〇〇はダメだ」じゃなく「□□ってすれば〇〇はもっと良くなる」そういう視点をもって周りに接することができるようこれかも精進します。

今日の処方箋

感情をのせられない文字にはご注意を

なにかの本で読んだのですが言葉から得られる情報って7%とかそれくらいで、あとは声の高さとか表情だったりボディランゲージがほとんどらしいです。なにを言うかよりもどうやったら相手に伝えられるか?あらゆる手段を使わなければもったいないなと思わせてくれた出来事でした。