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井谷聡子氏の「男女の境界とスポーツ」を読んでみた (初出:2020年7月)

※内容だけ知りたい場合はこちらの短縮版をどうぞ

※以前に別名でnoteに出していたこの文を引っ張り出しました。どうやら日本の研究者の方でMtF トランスジェンダーの女子スポーツ参加について書いている人はこちらの井谷氏の他にいないようです。長いので引用部分だけでもどうぞお読みください。


岩波書店『思想』の2020年4月号に掲載された論考です。この論考を読むにあたり最も重要な情報は、執筆者がカナダの大学を出ている、ということです。井谷氏はトロント大学オンタリオ教育学研究所修了(Ph.D)とのことです。
ご存知の方も多いと思いますが、カナダでは手術なしで比較的簡単に自分の性別を法的に変更できるようになっています。様々な施設の利用も身体的性別ではなくジェンダー・アイデンティティ(性自認)に基づくものになっていることが多いそうで、そのために問題も起きています。
私はこの論考を「身体的性別ではなくジェンダー・アイデンティティ(性自認)で性別を決める、ジェンダー・アイデンティティ先進国()であるカナダの空気を吸い込んで思考を育て、その物差しを持って日本にやってきた、性自認優先大国からの広報官」の言葉として読みました。つまり、そのくらい、日本の現在の常識とは異なることを述べておられます。
『思想』2020年4月号の発行当時は、まだJ.K.ローリング氏の発言をめぐる一連のことが報道される前でした。この時点の日本でこれを読んでも、書かれていることの意味をどれだけの人が受け取れたのか不明です。

次に重要な情報は、この論考では、「それぞれ別に考え別に扱うべき存在を、何のためらいもなく一緒に扱う」という傾向がある、ということです。
全編を貫いているのが、セメンヤ選手をはじめとするDSD(Differences in Sex Development 、性分化疾患)の女子スポーツ選手のことを前面に出し、そしてトランスジェンダーもそれと同じくなんですよ、という論の進め方をしていることです。MtFトランスジェンダーの権利拡大という目的のためにわざとそうしているのであれば研究者として問題があると思いますが、それとこれとは違うものですよ、ということが本当にわからないのであれば、研究者として認識力・分析力がまだ不足しておいでなのではないかと思います。結論ありきで、そこからすべての物事を見ているように感じられてなりません。
また、全編にわたり、トランスジェンダーというアンブレラタームを、トランスセクシャルとの区別もつけずに用いています。これは、性別変更に手術要件の無い国・カナダならではの感覚だと思われます。いずれにしても、「トランスジェンダー女性とはどのような状態の人を指すのか」を定義する意思はお持ちではないようです。

なお井谷氏は、DSDについて触れる際にはほとんど「インターセックス/DSD」という併記での書き方をしています。DSDの人たちを男女の性の中間にある存在として描写したいという意図を察します。ですがDSDの人たち自身は、自分たちの体には特徴があるけれど、性別がないわけではない、どちらかの性に属している、と語っています*。井谷氏も論考中でそのようなことに触れていないわけではありませんが、「インターセックス/DSD」という表記を全編を通して何度も繰り返しているので、記憶に残るのはこの表記の仕方のほうです。

* 以下に、日本性分化疾患患者家族会連絡会 ネクスDSDジャパン のウェブサイト https://www.nexdsd.com/dsd より抜粋いたします。

DSDsは、医学的には「性分化疾患」、海外の支援団体の一部では「インターセックス」 とも呼ばれています。ですが,日本では「インター”セックス”」との用語は、性行為,あるいは「男でも女でもない」ということをを連想させますので、当事者家族の 大多数には好まれていません。 

また、DSDのスポーツ選手は何人も具体的に名前とエピソードがあがっているのに、MtFトランスジェンダーの選手についてはそういったことがなく、抽象的な存在になっています。これではまるで、具体的に想像しないほうがよいということなのでは?と勘繰ってしまいます。

タイトルに惹かれてこの論考を読む人は、「なぜMtFトランスジェンダー選手が女子選手として登録されることが妥当なのか?あんなに体格が違うのに?」という疑問に専門家が答えてくれることを期待しているでしょう。しかし、その期待に応える文言は一切ありません。そのような質問をあらかじめ排除しているところに成り立っている論考です。
以下、小見出しに添って内容を見ていきます。いくつかの章をまとめて記述させていただいた部分もあります。

はじめに 

この部分に書かれている本論考の目的とされることを読めば、井谷氏の考えておいでの全体像がよくわかります。長いですが引用いたします。

以下、すべての引用部分について、太字は引用者によります。また、原文は縦書きだったため数字が漢数字表記でしたが、読みにくくなるためほとんどをローマ数字に換えさせていただきました。また、執筆者注にリンクしている注番号(1)などは除かせていただきました。ご了承ください。

===以下引用===
 本論考の目的は二つある。一つ目は、「選手生体パスポート(Athlete Biological Passport)」を起点として、性別コントロールのシステムがいかに人種化された性規範(racialized gender norms)を構築・維持する装置として機能してきたかについて考察することである。この考察では、「規範」「監視」「プライバシー」、そして「消滅」をキーワードに、性別コントロールを正当化する「女子選手の安全」、「女子競技における公平性(フェアネス)」という言説に着目する。そして、誰が誰の安全を脅かす「脅威」として、また公平性を脅かす「詐欺師」として想定されているのか、またその想定がいかに異性愛主義と家父長主義、人種主義によって下支えされているのかを分析する。
 本論考のもう一つの目的は、近年日本のフェミニストの間で問題として浮上してきたトランスフォビアの議論に一石を投じることである。スポーツにおける性別コントロールの装置は、性別確認検査/高アンドロゲン症規定以外にもう一つある。トランスジェンダーの出場資格をめぐる規定である。これも女子競技への出場資格をめぐる規定であるが、性別確認検査/高アンドロゲン症規定とは別の問題として議論される傾向がある。しかし、「人種・ジェンダー・イデオロギー」はこれら全ての規定に通底している。いずれの規定も規範的女の枠組みから外れた者を「クィア」、「脅威」、そして「詐欺師」として排除することで、異性愛の「トランスジェンダー」ではない白人男性を規範的存在として構築し、「他者」との階層関係を維持・強化するのである。
 スポーツ界での出来事を例に挙げて「女の活躍の場や安全を守る」ためにトランス女性の排除が必要であるとする主張がしばしば見られるが、スポーツにおける「性別コントロール」の」歴史と議論を注意深く読み解くと、そうしたトランス排除の言説が結局のところ白人異性愛男性を中心とした世界秩序の強化・維持に加担することになるリンクが見えてくる。何度ものうねりを起こし、時には強いバックラッシュに耐えながら、人間を階層化し抑圧する様々なイデオロギーと社会システムに対峙してきたフェミニズムにとって、スポーツ界の性別コントロールのシステムを支持することが何を意味するのか、それを問い直すきっかけを本稿が提供できれば本望である。
===以上引用===
井谷聡子(2020)「男女の境界とスポーツ ‐規範・監視・消滅をめぐるボディ・ポリティクス‐」『思想』no.1152 p.157

このように井谷氏は、〇〇を語ることで▲▲を明らかにしていきたい、というかたちでこの論考の二つの目的を述べています。この論考が扱っている歴史的事実やDSDの方の事例については大いに学べましたし参考になりましたが、井谷氏が目的とする肝心の持論の展開部分については、飛躍があるためまったく納得がいきませんでした。一般女性の間にあるのはトランスフォビアである、と始めから決めつけて議論を見ており、その見方が妥当であるかどうかも論考中で検討されていません。

スポーツと性別二元制

===以下引用===
スポーツは、こうした様々な競技デザインを通じて「男女差」を数値化し、可視化させることで「強い優れた男の身体」と「弱く守られるべき女の身体」という社会の性規範を強化・再生産していく。
 ところが、男女の身体とその特性や能力は、確かに平均値をとれば違いがみられる点もあるが(ない点も多い!)それらですらも実際には値が重なり合う部分が多いのである。これらを極めて単純化して言うと、女子の100メートル走世界記録である10.49秒(1988年にフローレンス・グリフィス・ジョイナーが記録)以下で走ることができる男性は、たとえエリート並みにトレーニングをしたとしても、人口のうち極めて少数である。ところが、世界記録の男女差や平均値の差だけが強調されることで、「男は女より走るのが速い」という考えが強化され、「男は優れたアスリートで、女は二流である」といったような男女の階層化された身体差イメージが再/生産される。そこでは、アスリートとしてより優れた「男身体」をもっていた(る)とされるトランスジェンダーの女子選手は、しばしば「生物学的女性」や「真の女」と称されるその他の女子選手たちの活躍の場を奪い、安全を脅かす存在として出場を厳しく制限され、時に激しいバッシングにさらされる。
 エリートスポーツの世界には、女性の活躍の場を「侵害」し、安全を「脅かす」として排除されるもうひとグループの女性が存在する。インターセックスや性分化疾患、英語ではDifferences in Sex Developmentと呼ばれる身体特徴を持つ女性たちである。インターセックス/DSDの原因や、現れる身体的特徴、そして当事者が自分の性別をどう認識し経験するかは多様であり、一括りで語れるものではない。しかし、スポーツ界はインターセックス/DSDの特に女子選手に対して、厳しい検査と出場規定を設けてきた。その最も新しい規定が、体内で一般的な女性よりも多くのテストステロンを生成する女性の出場を制限する、いわゆる「高アンドロゲン規定」である。
===以上引用===
井谷聡子(2020)「男女の境界とスポーツ ‐規範・監視・消滅をめぐるボディ・ポリティクス‐」『思想』no.1152 pp.158-159


この章は言わばウォーミングアップですが、既にDSDの方々を前面に出して語っています。また、破格に優れた選手だったジョイナー氏のことをもちだして「男女併せた状態でも女性選手は一流でありうる」という意味のことを言い、女性は強く早くなれる、問題は女性が二流であるという身体差イメージを持ってしまうことなんだ、のように言っています。ですが、30年以上も記録を破られていないくらい破格の人を持ち出して、多くの人が関わる女性スポーツ全体のことを語ってしまうのは、果たして適切でしょうか。

また井谷氏は、「トランスジェンダーの女子選手は、しばしば「生物学的女性」や「真の女」と称されるその他の女子選手たちの活躍の場を奪い、安全を脅かす存在として出場を厳しく制限され、時に激しいバッシングにさらされる。」「エリートスポーツの世界には、女性の活躍の場を「侵害」し、安全を「脅かす」として排除されるもうひとグループの女性が存在する。」(以上は引用部分にあり)に見られるように、DSDの方々を除く生物学的女性の側に立って物事を見ることは一切拒否しています。そしてこの姿勢は最後まで一貫しています。これがフェミニズムの特集なのか、女性とはいったい何なのか、と、『思想』4月号の表紙を何度も確認したくなるくらい、生物学的女性からの声を無視しています。

スポーツ界における性別コントロールの導入
性別確認検査法の変遷
高アンドロゲン症規定の導入


これらの章では歴史的変遷について、特に1960年代以降の性別検査について語られています。
DSDのことについて触れ、疾患という視点よりも「性分化のバリエーション」として紹介しています。かなり長くを割いて説明しています。セメンヤ選手をはじめとするDSDの選手について何度も言及して詳しく取り上げています。DSDの選手たちには詮索と批判の目が向けられていること、人権侵害的な検査を受けさせられていること、女子選手としての登録にテストステロン値が一定基準以下であることを求められ、それを下げるためのホルモン治療で副作用も出ていること、セメンヤ選手は裁判沙汰になっていることにも言及されています。読んでいて私自身が、セメンヤ選手がどうか自分の健康な体で堂々とスポーツができるようになりますうに、誰も彼女を苦しめることがありませんように、と叫びたいような気持になりました。

トランスジェンダーの選手と出場規定

2004年以降、最初は実質トランスセクシュアルの選手のみを対象にしていましたが、2015年から「トランス選手」出場規定が大幅に緩和されました。前のほうの章で述べられていることですが、現在はMtFトランスジェンダーの選手についてはテストステロン値を一定以下にすることが求められている、とのことです。

==以下引用====
表向きには性別確認検査と高アンドロゲン症規定、トランスジェンダーは個別の問題として取り扱いつつ、「女子選手としての資格」をテストステロンというホルモン値一つに求めるようになっていった。実際に2015年にIOCがトランス選手の出場規定の改定を発表した時の文書のタイトルは、「性別移行と高アンドロゲン症に関するIOCコンセンサス会議 2015年11月(IOC Consensus Meeting on Sex Reassignment and Hyperandrogenism
November 2015)」となっている。これらの規定に通底するのは、結局のところ欧米の性規範からはみ出す「筋肉質」で「強く」「速い」女たちをクィアな身体として排除し、男女の明確な線引きを維持しようとする欲望と、ジェンダーや「性差」を科学的方法で身体の中に見出そうとする科学知の絶え間ない探求である。
 こうしてスポーツにおける性別コントロールで取り締まりの対象になった「クィア」な女たちは、生まれつきの身体特徴であれ、性別適合手術の結果であれ、「普通の女」のチャンスを不当に奪う「詐欺師」として、時には彼女たちを危険に晒す「脅威」とみなされる。この状況下ではトランス選手もインターセックス/DSDの選手も、例え副作用に耐えながらホルモン抑制という条件をクリアし、厳しいトレーニングに耐え、トップレベルの技術を身につけ、ようやく活躍できるところまでたどり着いても、競技会で勝てば「不公平だ」と、負ければ「批判をかわすために手を抜いた」と批判され、「勝っても負けても負ける」、「ダブルバインド」(McClearen 2015:88)の状況に置かれている。
===以上引用===
井谷聡子(2020)「男女の境界とスポーツ ‐規範・監視・消滅をめぐるボディ・ポリティクス‐」『思想』no.1152 p.167

ここがこの論考の最も重要な箇所でしょう。MtFトランスジェンダー選手とDSDの女子選手を、スルっと、同じような存在として括ってしまっています。同一のイメージで考えるように誘導しています。これを言うために、ここまでずっとDSDの人たちの話をしてきたようなものです。

フェミニストによるトランス女子選手批判

===以下引用===
 こうしたスポーツ界の事例が、日本でも「女性オンリー」の空間へのアクセスをめぐる議論の中で取り上げられるようになってきた。例えば、SNSを中心として繰り広げられてきた「誰が女なのか」「誰が「女の空間」への立ち入るを許されるべきか」をめぐる議論において、トランスジェンダーのスポーツ参加とその一部の結果を取り上げて、トランス女性は女ではない、あるいは女の空間への立ち入りを許されるべきではないという主張がなされている。スポーツが一見すると分かりやすく可視化され、数値化された男女差(のようにみえるもの)を生み出す故に、「男女の身体差」に関する規範に基づいたトランス排除を正当化する格好の「証拠」となるのだろう。
 こうしたスポーツからのトランス女性排除に関する議論は、日本に限定されたものではなく、欧米でも繰り返し起こってきた。またトランス女性を女子スポーツの空間から排除する理由として挙げられるのが、「生物学的女」の活躍の場と安全確保とされるのも日本の内外で共通している。
 高アンドロゲン症と性別移行に関する規定によって排除される二つのグループの女性に対し、フェミニストが異なる態度を示すことがある。テニスの女王として君臨し、現役時代にレズビアンとしてカミングアウトしたことで有名なマルチナ・ナヴラチロワは、インターセックス/DSDの規定を厳しく批判する一方で、トランス女性の女子競技への参加は、ホルモン療法という制限付きであっても強く反対する立場を明らかにした。ナヴラチロワは、自身がSunday Timesのコメント欄に寄せた「トランス選手に関する規定は詐欺師に褒美を与え、無罪の者に罰を与える(The Rules on Trans Athletes Reward Cheats and Punish the Innocent)」(Navratilova 2019 著者訳)と題する文章の中で、トランス女性は「女になることにした男」であり、出生時に割り振られた性別が女である選手がトランス女性と競わなければならないのは、詐欺でありフェアでないと主張した。これは多方面から大きな批判を浴び、ナヴラチロワが諮問委員を務めていたAthlete Allyは、彼女を同委員会のメンバーから外すと発表した(Hoffman 2019)。
 問題の文章のタイトルが示す通り、ナヴラチロワは出生時に「女」を割り当てられた選手を「無罪の者(the innocent)」と呼び、出生時に「男」を割り振られた女性他性自認を持ち、かつ女性としてスポーツ参加することを「詐欺(cheats)」と見なし、その非難の矛先を特定の選手ではなく「トランス選手」というカテゴリー全体に向けた。つまり、性別移行に関する規定により「トランス選手」の枠組みが構築されると同時に、「トランス女子選手」が本質的に欺く者としても構築されている。
===以上引用===
井谷聡子(2020)「男女の境界とスポーツ ‐規範・監視・消滅をめぐるボディ・ポリティクス‐」『思想』no.1152 pp.168-169

”はじめに”の章で井谷氏が「詐欺師」という言葉を使ったのは、ナヴラチロワ氏のこの言葉を受けてのものです。そしてこの論考の執筆動機自体にもナヴラチロワ氏への反発が深く関わっていることを感じます。

井谷氏がもしも、DSDの人とMtFトランスジェンダーの違いなんて大きくない、だからナヴラチロワは間違っている、と、戦略のための詭弁でなく本気で思っているのだとしたら、大変お気の毒なことです。
日本の大衆は良くも悪くも「自然」が大好きです。健康な身体を改変することへの抵抗は大きい。だからMtFトランスジェンダーとDSDの女性の方々をほとんど同じものとして扱うこの論考の方向性は、大衆からは受け入れられないでしょう。「え?ナヴラチロワさんの言っていること、悪くないでしょ?」「生まれた身体の状態のまま、無理な手術も薬も加えずに、皆がスポーツをして高めあっていける世の中になればいい、って言うことの何が悪いの?」「そういう特徴を持って生まれてきたDSDの女子選手たちと、自分で選んでホルモンを摂って体を変えたりして調整して女子選手になったトランス女性選手は、全然違うでしょ?」という反応しか引き出せないでしょう。
これは「身体髪膚之を父母に受く、敢て毀傷せざるは、孝の始めなり」という保守的な思想だけに基づくものではありません。自然への愛は日本の大衆にとっての宗教だ、と言われれば納得する人も多いでしょう。コロナ禍のなかでも花見にでかけたり、山に行こうとする。露店温泉で体をほぐしてリラックスすることが大きな楽しみ。それは自然との交歓を是とする価値観があるからです。
そこに、ジェンダーアイデンティティ・イデオロギーという別のドグマを持ち込もうとしているのがTRA学者の皆さんです。そのイデオロギーの信条は、個人は望んだ性別で生きられるということであり、そのためには生まれてきたありのままの状態の自分の身体というものの価値を低く見ます。つまり人工的なのです。

小宮友根氏は、信念としては「トランス女性()は女性です」を確固たるものとして持ちながら、日本社会の常識にそれでも配慮して『思想』2020年4月号での論考にはおずおずと滑り込ませるにとどめていましたが、井谷氏は「これが世界の常識です!」という堂々たる論調で主張をしています。日本でのトランスフォビアの議論に一石を投じる、ということを一つの目的として書かれたわけですが、その前に、自分が語りかけている対象である日本社会について、よくお考えになったほうがよろしいのではないかと思います。

付け加えれば、日本のフェミニストのSNS上にあるのは「トランスフォビアの議論」ではなく、ジェンダー・アイデンティティ・イデオロギーで何でもかんでも推し進めようとするTrans Rights Activistsへの批判であり、フェミニズムの名の下でトランスジェンダリズムが生得的女性たちを圧迫していることへの批判です。
TRAおよびTRAに与する学者の方々は、カナダやイギリスのように事が運ぶのを夢見ておいでかもしれませんが、彼らが相手にして説得しなくてはならないのはTERF(Trans Exclusionary radical Feminist)と呼ばれる女性たちではなく、大衆です。そして大衆は蔑視されることがわからないほど馬鹿ではありませんし、むしろエリート仕草には大変敏感です。ましてや、性別にかかわることであれば、誰もが興味津々に注目し、言いたいことを言うに決まっています。

そしてこの章では「安全」の問題の扱われ方にも触れています。

===以下引用===
また、「安全」の問題に目を転じると、そこには優先的に守られるべき「女」とそうでない女の存在が浮かび上がる。性別二元論のルールが厳密に布かれ、多くのトランスジェンダーや性規範から外れた者たちがしばしば困難を経験する空間がトイレであるということは、これまで何度も証言され、書かれてきた。
(中略)
 このリスクは必ずしもトランスジェンダーを自認している人だけに当てはまるわけではない。結局のところジェンダー・ポリシングでは、どのようなジェンダーの人間と「見なされたか」が問題となるのであり、性規範から外れる全ての人が監視とハラスメント、時には暴力的排除の対象となりうるのである。
===以上引用====
井谷聡子(2020)「男女の境界とスポーツ ‐規範・監視・消滅をめぐるボディ・ポリティクス‐」『思想』no.1152 p.169

ここでもこの論考の「それぞれ別に考え別に扱うべき存在を、何のためらいもなく一緒に扱う」という傾向が出ています。ここで言う「性規範から外れた」とは、外見がいわゆる「女らしくない」人たちを指しています。ですが、「マニッシュな外見の生得的女性が女子トイレにいる」のを見てびっくりすることはあっても、その驚きはすなわち排除、ということではありません。生得的女性に出て行け、というほうが間違っている。これは社会的なコンセンサスです。しかしながらこの論考では、マニッシュな女性を前面にだして、MtFトランスジェンダーが女性の空間に入ることを正当化しようとしています。

規範・監視・プライバシー
パスポートと消滅

この論考のサブタイトルは「規範・監視・消滅をめぐるボディ・ポリティクス」であるところから、言いたいことはこれらの語に集中していると考えてよいでしょう。まとめるとこういうことです。

規範:男性ジェンダー・女性ジェンダーの規範(norm)が強力に作用している場においては
監視:同質でない者を監視し排除しようとする
プライバシー:そこではプライバシーは犠牲にされる
パスポート:女子スポーツの国に入るのには厳しい審査が要求されているが
消滅:その国に入れず沈黙させられ存在を隠されてきた人たちがいる。それはDSDの女子選手とトランス女子選手

これに対して、私はナヴラチロワ氏と全く同じ意見です。DSDの女子スポーツ選手たちは、女子スポーツの国でなんの苦しみもなく活躍すべきです。MtFトランスジェンダー選手は、こんなことはパスポートだ消滅だと言ってわざわざ己の精神と身体を苦しめる道を選ばずに、男子スポーツの国で戦えばいいと思っています。男子スポーツの国に問題があるのならばそこをこそ改革すべきです。

そしてこの論考は以下のように締めくくられます。

===以下引用===
規範から外れる者への監視は、監視される者を強く可視化する一方で、規範そのものを構築する権力を不可視化する。私たちが消滅を免れたトランス選手とインターセックス/DSDの選手目撃する幸運に恵まれながらも、彼女らの「正当性」について消耗戦を繰り広げる時、そもそも女の多様性を否定し、強い女を罰することで強化される家父長制と白人至上主義の解体に向けた戦いは、見事に頓挫させられているのではないだろうか。
===以上引用====
井谷聡子(2020)「男女の境界とスポーツ ‐規範・監視・消滅をめぐるボディ・ポリティクス‐」『思想』no.1152 p.173

この主張を逆から読むと、MtFトランスジェンダーを「女の多様性」に入れれば、強い女が増え、家父長制と白人至上主義は解体に向かう、ということを言っています。
DSDの女性の方々、女子トイレで驚かれるようなマニッシュな外見の女性は、間違いなく女性の多様性です。彼女たちがスポーツや仕事その他の場で自分らしくあることが、社会の多様性全体に寄与するでしょう。ジェンダー(性役割)の枷から女性を自由にするでしょう。それはやがて、他の女性たちの力とも合わさり、硬直した家父長制に変更を迫る力にもなるでしょう。
だから井谷氏のように、女性の多様性にスルっとMtFトランスジェンダーも混ぜて考えてしまうことこそが問題だと私は考えます。GIDの人たちを除くMtFトランスジェンダーは、男性の多様性の一部と私は考えます。


* * *

日本では、Trans Rights ActivistおよびTRAに与する学者の皆様が「TERF(Trans Exclusionary radical Feminist)は外国での極端な事例ばかりを紹介して恐怖をあおっている、トランスフォビアだ、差別だ、許されないことだ」と声を大きくして語っています。ですが、このような論考を読んでしまえば、そんなのは嘘とごまかしとしか思えません。なぜなら、このような「身体的性別ではなく性自認を優先する国でのルール」、つまりジェンダー・アイデンティティ・イデオロギーを、新しい日本の常識として広めようというTRA学者たちがほとんどだからです。日本をカナダのような国にしたい、だからこそこの井谷氏を執筆者として起用し、カナダで席巻している考え方を世界の常識として語る論考をインテリ層が読む雑誌に掲載したのだと私は考えます。
このことを考えれば、私のような一般大衆も、カナダやイギリスなどの国々で性自認優先の制度が導入された結果何が起きたのか、何が起きる可能性があるのか、知らされていなくてはいけません。私自身が生きる社会全体にかかわる問題だからです。

東京オリンピックが2020年に開催されていたならば、井谷氏がいろいろなメディアで「トランスジェンダー女子選手」について識者として語っていたのではないかと思います。「トランス女性()は女性です、それが今の世界標準です」と広報するために。ネットで検索をかけたところ、ご自身の考えとしては必ずしもオリンピックに賛成とは言い難いようではありますが、それでも、そのための布石として昨年のうちにこの論考を準備し、この時期の雑誌に載ったのだと思います。この論考は『思想』2020年4月号の最後に載せられていますが、私はこの論考をこのタイミングで世に出すためにこそ、『思想』の2020年3月号と4月号、フェミニズム特集号はあったのではないか、とさえ勘繰ってしまいます。

Trans Rights Activistsはしばしば、GID(性同一性障害)の人たちの存在を前面に出して語ります。そのため、にわかのトランスジェンダーアライは自分たちがトランスジェンダーとトランスセクシュアルを誤解していることさえ気づかずに、「体の性に違和感があるから体を変えてまで女性になりたいと言っている人たちのこと(=事実上のTS)を、生得的女性は拒否するんですか?それはトランスジェンダーへのひどい差別です!」と言ってTERFと呼ばれる女性たちを責め立てます。そしてTRAはその誤解を訂正しようとせず、アライを利用しっぱなしです。
井谷氏がこの論考で誘導しようとしている感情も同様のものです。「セメンヤさんは何も悪くないのに、酷い目に遭ってきたんですね!トランス女性()も同じなんですね。テストステロンの値を下げるために副作用のあるホルモンを摂らされるなんて!人権侵害!差別するな!」という流れです。

井谷氏が誘導したがっている方向は、性自認のみで性別変更が法的に可能になる社会です。「ホルモン投与でテストステロン値を下げることも体にダメージを与えるから、人権を大事にして、身体は変えずに性自認だけで女!で、もういいよね?決まり!」という過激な方向です。日本の大衆はこれを聞けば一層「何言ってんの?」となると思います。MtFトランスジェンダーからテストステロン値という基準まで外すならば、「それは男とどう違うのか?」という問いが絶えず向けられるでしょう。「心が女であれば女」の理屈を身体能力を競う場であるスポーツに持ち込むことは、そもそも最初から無理がありすぎたのです。

人口比からすると今後もDSDの女子スポーツ選手が急に増えることはないでしょう。しかしMtFトランスジェンダーが性自認のみで女子スポーツの世界に参入できるようになれば、その数は激増するでしょう。DSDの人たちのうちの更に一部のスポーツエリートを除けば、身体的女性は、スポーツをする動機を楽しみまたは単に健康に過ごすための方法としてしか考えられなくなるでしょう。このような傾向が進んでいけば、身体的男性が活躍の場を2倍にした、という結果にしかならないでしょう。
私には身体的女性がエリートスポーツの場から排除されるディストピアに見えるのですが、井谷氏には本当に強い「女子」選手が競い合うユートピアに見えるようなのです。女子選手というラベルさえついていればその内実は問わない、というのが専門的に研究している研究者の考えだったとは、あまりにも大きな驚きです。

井谷氏だけでなく現在のフェミニズム(≒トランスジェンダリズム)の学者たちは、「既に女性はトランス女性()を含めて再定義済み」と、一般の女性たちの与り知らぬところで決めてしまっています。一般の女性たちには決定を後日通知、ということです。こんなに他人を馬鹿にした話はありません。女性たちこそが当事者であるにもかかわらず、大事なことの決定権から排除されているのですから。
ジェンダー・アイデンティティというイデオロギーに大学教員が身を捧げ少しも疑問に思わずにこのような論考が書けること。そしてそれを日本の良心とも言える出版社が雑誌に掲載すること。このどちらも大変恐ろしいことだと私は思っています。


以下は2021.1.29 記

初出の際にいただいたご指摘:「論考中のジョイナーのくだりは要するに『女性と男性の身体差なんてそれほどない』という話になっているけれど、そこの論旨の雑さについてもっと突っ込んでもよかったのでは?」
初出の際にいただいた補足情報:カナダでも他の国でも、実のところ法案はだまし討ちで一般の人たちがよくわからないまま通過していた。カナダでは法案成立の根拠になった文書の開示も拒否されている。いつのまにか性自認優先に疑問を投げかけたら差別扱いされる社会になっていた。

※…そのやり方は、こちらで述べられているノルウェーの話とも一致しますね、と思いました。

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