『恋文の技術』感想文 #白熊文芸部


世界は無駄に満ちている。そして無駄こそ愛おしい。

 面白い本だった。掛け値なしに、ただ面白いと思った。
 何が面白かったかはよくわからない。情報の洪水で押し流された気もするし、波に翻弄されただけで実は浅瀬から出ていなかった可能性もある。
 ここには変な裏設定も、隠されたメッセージも、気付いて欲しいアドバイスも、きっと何もない。手紙によって相談したりされたりしている以上、探せば教訓にできるものがあるかもしれないけれど、それは本題ではないと思う。
 非日常とまでは言えなくとも、日常ともまた言いにくい。そんな絶妙なバランスの中で書かれた、極上のエンターテインメントである。

「たとえどうにかなるもんでも、俺にかかればどうにもならんと思う。」
 そう言う主人公は特に大活躍もせず、人並みの知識で、人並みに見栄を張り、人並みにボロを出し、時に人並み以上の語彙力を駆使して、練習と言いながら毒にも薬にもならない文章を綴る。
 これだけ日常を面白おかしく表現できるのなら、最高の恋文なんか書かなくてもなんとかなるんじゃないかとも思う。しかしそんなことくらいでは男女がくっつかないのが森見登美彦作品である。これは本当に必要かと悩んでしまうような遠回りをしながら、無理やり作った変な道を突き進むのだ。読み終わってから考えたって、必要だったとは思えなかったりする。そんな世界で、ああでもないこうでもないと詭弁を翻しながら日常が進む。

 日常と言っても、手紙なのだから全てが日常ではない。
 僕がVtuberだということを知っている相手に「今はVtuberをしています」と報告する理由はないのだ。書くからにはそこには何かしらの変化、あるいは維持の報告が書かれるはずだ。
 往復という時間がある前提で書かれる手紙は、日常という長い時間のほとんどを省略している。これだけなら小説やマンガでも当たり前に行われるが、この本はその手紙も一方のものしか読ませてくれない。多くは主人公から誰かに宛てた手紙だ。
 相手からの手紙に「読んだけれどわざわざ返事するほどではない情報」があったとしたら、それに返事されることはなく、その情報は読者には伝わってこない。主人公側にしたって、わざわざ書くほどでもない日常の雑事はすべて省かれている。
 そうしてスカスカになるはずの情報を埋めて飾り立てるのが、語彙力豊かな毒にも薬にもならない言葉たちである。それは邪魔になるどころか、行動の面白さに文章の面白さをプラスして、何かすごく楽しい日常が続いているように思えてくる。愉快で無駄な言葉こそ愛おしい、どんな辺鄙な場所でも思考は自由だと言われているようだ。

 考えると手紙というのは面白いと思う。素人の文章が何の工夫もせずに読んでもらえる機会はなかなかない。TwitterなどのSNSが読んでもらえるのは短文だからだし、全てが読まれるわけでもない。長文になれば、他の活動で興味を持たれたりしていないと誰も読んでくれないこともあるだろう。
 手紙は送る相手をひとりに絞ることでコミュニケーションとして自然と読まれる状況になる。しかもこの物語では、電話などの手紙以外の連絡手段が存在しているにも関わらず、手紙という手段を採用している。長文という点ではブログなどと同じでも、自分だけに向けられた、しかも物理的に手間がわかりやすい媒体は、きっとわざわざ読むことへのモチベーションを上げることだろう。
 主人公の文通への拘りに付き合う友人たちも、きっと手紙という非日常が楽しかったのだと思う。よほど苦手でなければ、聞いてもらえるのと同じくらい、読んでもらえるというのは嬉しいものだ。そうでなければこの熱量の文通を続けるのは難しい。出さなければ終わりなのだから。
 作中には書かれていない友人から主人公へ宛てた手紙も、きっと個性的で愉快な内容だったのだと思う。

「詩人か、高等遊民か、 でなければ何にもなりたくない」
 たびたび書かれる森見登美彦氏のこの言葉は、心よりの同意である。


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