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経歴と逸話から考える植芝盛平:武の悟りと宗教の悟りは同じなのか?

前回は植芝盛平って36歳くらいまでは武術が趣味の単なるゴツいおっさんなのでは?という大変失礼な考察をしたわけだけれど、ホントに大事なのはこの後だ。

経歴と逸話から考える植芝盛平:36歳までは武術が趣味のおっさんでは?|合気道化師マツリくん|note

これまでは何か武術を習ってもトータルで三ヶ月未満くらいしかやってないという人だったわけだが、大本教と出会うことで変化が訪れる。

(だいたいの資料は上記リンク参照)

別れと出会い

盛平は1919年の12月に父が危篤状態になり、北海道を去る。
その途中で京都にすげぇ霊能力者がいるという話を聞いて何を思ったのか大本教の本部に立ち寄るのだった。

そこで実質的な指導者だった出口王仁三郎と出会い、なにやら感じるところがあったらしく父が危篤なのに数日滞在して教えを学んだらしい。

(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』より)

年が明けて1月4日、実家に戻ったものの、父はすでに亡くなっており、失意のまま周囲の反対を押し切って家族を連れて大本教へと移り住むことを決意する……。

(なんで??)

武術中心の生活

家族を連れて宗教団体のコミューンに移り住むってのはなかなかヤバそうな話だけど、盛平にとってはプラスに働いた。

出口王仁三郎は武に理解があったらしく、盛平は「植芝塾」という自分の道場のようなものを自宅に開かせてもらい、さっそく教団全員に指導することになる。

立場が人を作るなんて話もあるけど、盛平をこんなに評価した出口王仁三郎もなかなかスゴい。おそらくこの頃に盛平は実力をつけていったのだろう。

2年後には大東流の師匠・惣角から教授代理など3つの資格を受けているので、それだけの実力がついていたということなのかも知れない。

武道と神道の親和性

ここで見逃せないのが大本教という宗教が神道的な思想を教えていた点だ。そもそも日本の武術は神道と関わりが深い

中でも出口王仁三郎が構築した神道的な思想は陰陽、呼吸、振り上げ振り下ろしといった武術の概念とも相性が良かったし、直接そういう教えを受けられるんだから環境としては最高だ。

ついでに惣角が教えていた合気術は気合術ともセットだったので、武術のかけ声、気合の発声があり、これは出口王仁三郎が研究していた言霊と関連づけられる。

というわけで、盛平にとって大本と大東流などの武術は相乗効果がスゴかったんじゃないかと思う。

修羅場と開花

大本に来て数年が過ぎた1924年に出口王仁三郎が宗教国家建設のためにモンゴルへと旅立ち、その護衛として盛平もついていく。

この頃には盛平もかなりの腕前になっていたと考えられる。結局、その活動は志半ばで失敗に終わり、銃殺刑寸前でなんとか助け出されて帰国したわけだけれど、結果的にちゃんと王仁三郎を守り抜いている

翌年に本人が宇宙の真理を悟ったという「黄金体体験」が起こっているのも偶然ではないだろう。
この頃には軍の剣道の実力者と竹刀で立ち会って何もさせなかったりと、明らかに実力がついてきて教団の外にも噂されるようになった。

元総理の山本権兵衛に槍の技術を絶賛されたり、海軍大将竹下勇が弟子入りしたり、徐々に盛平は教団の外でも指導を行い、そのままの勢いで東京に呼び出され拠点を移すことになる。

これ以降は植芝盛平の実力は衰えることなく様々な逸話を産み出しながら合気道という武道を産み出す。

学んだものを一つに繋げる思想

というわけで、植芝盛平が本当に実力をつけたのは大本教に入って1年~2年ほどしっかりと稽古したからこそだと思う。
それと、出口王仁三郎の思想に触れたこともおそらく無関係ではない。

なぜなら出口王仁三郎の神道思想というのは万教同根、あらゆる思想が祖先を同じくするという考えだからだ。
その思想があるからこそ、盛平がそれまで学んできた武術の経験を活かすことができたのだろう。

それがどんな思想だったのかは盛平の口述を筆記した『合気真髄』や『武産合気』から知ることができる。

というわけで、武産合気や合気真髄を読もうぜ!というのがこの考察の裏の趣旨だったりする。

ただ、盛平の言葉は弟子達でもよくわからなかったと言われるほど難解なので、次はその辺を解説してみちゃおうと思っている……。

てなわけで、つづく。

マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?