「読める点字ブレイルノイエ」で合気道を考える
ブレイルノイエ(Braille Neue)って点字があるらしい。
点字ってのは普通は目の見えない人のためにあるイボがついた点で、その組み合わせを指で触って文字を読み取る。
知らん人には何が書いてあるのかさっぱりわからない。目が見えてる人ならポケモンの某シリーズでもやってない限りなかなか触れる機会はないだろう。
高橋鴻介(たかはしこうすけ)という人は「点字と文字を一緒にすればいいんじゃね?」という発想でブレイルノイエと呼ばれる文字を発明した。
文字の中に点字を配置することで、目が見える人も見えない人も同じ文字を「読む」ことができるというわけだ。
知ってみれば簡単なことだけど、文字と点字を切り分けていると思いつけないコロンブスの卵的な発想でもある。
感じるとは何か?
合気道の面白いところは二重性だなと思った。
人間というのは精神的な面と肉体的な面が重なり合ってひとつになっている。合気道の業(わざ)はその両面を統合していくことで形になっていく。
だから重なっているものには合気道を感じる。
ブレイルノイエにも合気道の精神が宿っているのだ。おれの中では。
人は文字を読むときに、一体どうやってそれを自分の中に落とし込んでいるんだろうか。
見て判断する場合と、触って判断する場合で違いはあるのだろうか?
触れている時に相手のちょっとした感情を読み取ることはできる。合気道の稽古では二人一組になるけれど、相手の動きには相手の人間性みたいなものが濃縮されている。
あるいは見られているだけでも意志を感じることはあるし、見ているだけでも意思を伝えられることもある。
見て読み取れるものと触って読み取れるものは、実は近い。
ひびきを感じる
陰と陽、視覚と触覚、肉体と精神。
重なり合わせることで世界はひとつになる。
目の見えない人の中にはエコーロケーションといって口から特定の音を出すことでその音の反響からソナーみたいに周囲を感じることができるらしい。
反響を感じることで世界を感じることができるわけだ。
でも、考えてみると触れることも自分の身体に起こる反響を感じることだと言えないか?
岩を触る時に感じるのはそれがどれくらい硬いか。平らな台を触って、目に見えない汚れがあるかどうかがわかったりもする。人に触れて感じるのは相手の緊張や動作の変化。
同じように考えると、人は文字を読むときにも単にその意味だけを感じているわけではない。
合気道の創始者は合気道ってのは「ひびき」を広げてそれと一体となる道だとかなんとか言っていた。
言葉もまた「ひびき」だ。ただの音じゃない。言葉の強弱やなめらかさから感情がわかったりする。耳に届いているのはただの音だけじゃない。
音の「ひびき」の中に色んなものが含まれている。そういうものを人は勝手に感じて生きている。
物語の中にも、声にも、動作にも、表情にも、視線にも「ひびき」が宿っている。昔はそういうものに魂みたいなものを感じてたのかも知れない。
「ひびき」を感じることが合気道なんじゃないかと思ってる。
マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?