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愛するということは合気道においても極意っぽいから解説してみよう

ドイツの哲学者エーリッヒ・フロムが書いた愛についての哲学書『愛するということ』というのがある。
この本は愛の本質とは何か?を説く。

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内容を要約すると「愛のことを何もわかってないやつが愛されたいとかほざくな!愛ってのは覚悟と信念がないとできねぇんだよマヌケ(意訳)」みたいな事が書いてある。
結果、あ~これは合気道と一緒だなぁと思ったので、そこら辺を解説する。

合気道の愛

合気道では愛とは天(メ)の意()だと言われている。
要するに天の意思、神の意思だ。それは何か? 簡単に言えば太陽だ。

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Tips
最近、天意=愛を唱えるスピリチュアル系が多いけど、だいたい神道系宗教における言葉遊び大好きおじさんこと出口王仁三郎のせいじゃないかと思ってる。

太陽は地球上の多くの生命を育む源といっていいだろう。地球をはじめこの宇宙は太陽を中心に回ってる(厳密には少し違うが)。
太陽が中心となった物理的な要素で生命は繁栄しているのだ。
だからこうしたすべての条件が愛(天意)なのだ。愛がなければ生命は生まれない。

つまるところ愛とは物理的な力であり、その在り方をパクることが合気道のいう宇宙と一つになるということなんじゃねぇかなと思ってる。

愛するということ

エーリッヒ・フロムは愛とは受身ではなく攻め(能動的)だという。
愛されたいと願うなら、愛を学び愛を知り愛を実践しなければならないのだとか。
ひとたび誰かを愛すると決めたらそれを貫かなくてはならず、そのためには人格を磨き自己を成長させなければならない。
相手に愛されるとかそういうことは関係ないのだ。

幼稚な愛というのは親から愛を受けたように「愛されているから愛する」という受動的な愛。
やがて成長すれば「必要な相手を愛する」ようになる。
だが、こうした愛は所詮は未熟なものでフロムが成熟した愛としているのは「先に愛するから相手が必要になり、そして相手から愛されるようになる」ということなのだ。

成熟した愛は二人をひとつにし、それができるならあらゆる人間を愛せるようになるんだそうだ。
愛とは人に対する「労働」であり「尊敬」であいり「知」だ。

合気とは愛なり

合気とは愛だ。天地の心とひとつになり、あらゆるものを愛護する精神で自分の使命を果たしていく、それが武の道だと合気道の創始者は語っていた。

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Tips
万生館合気道と呼ばれる合気道の一派では、稽古前にこれを唱える。どこで区切るかが絶妙にムズイ。

こんなことは単なるお題目だと思ってる人も多いだろうけれど、案外こういう考えが大事だったりする。
たいていの物事というのは、結局は同じような本質にたどりつくからだ。
太陽のように「先」に与えていれば、絶対の先手を取ることができる。さすれば、この人は私が思っていたようなタイプの人じゃなかった!ということを防げる。すげぇ!
愛することにおいて相手なんて問題にならないのだ。

先に愛することができれば、そこら辺の昼ドラでくり広げられるようなドロドロ愛憎劇なんぞ起こらないのである。
愛するための修行が足りなければ、迷いが生まれ恋愛ドラマになってしまう。

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ちなみにこれは合気道における氣の記号。
太陽と同じく放射している。それくらい圧倒的に早く先にこちらから仕掛けていなければならないということである。

つまり愛するとは自己を完成させ、先手を取ること。
太陽のように、すべてに降り注ぎすべてを育む光は圧倒的な先手だ。
合気道とはそういった愛の力で先手を取る。愛するためには後手に回ってはいけない。
「愛される」とは後手に回っているということ。先に「愛する」ことができれば、相手からは愛されることしかない。ましてや愛する相手から傷つけられることなんてない。

これこそが絶対不敗の愛の先手だ。だから愛と合気道は同じ、愛するということと合気道は同じなのだ。同じったら同じなんだい!わかったな?




もう終わりだ!




マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?