合気道の思想的ルーツ:荘子から考えるあらゆるものの同一性
荘子は老子の流れを汲む中国の思想家で、そのエピソードには様々な合気道みを感じることができる。
老子との大きな違いは何やらファンタジックな逸話が多くなっていると言う点。
色々な故事成語の基になっているエピソードも多いし、さらにその真意はより合気道っぽい。
朝三暮四
朝三暮四というのは、猿使いが「猿にエサを朝三つで暮れに四つでどうよ?」と言ったら嫌だというから「なら朝四つで暮れに三つでどうよ?」と言い換えて、朝が増えたぞ~と猿が喜んだという話。
これは目先の利益につられて本質を見誤る、みたいな意味で語られるのだけれど荘子が真意としていたのは「万物斉同」つまりあらゆるものは同じだということらしい。
このエピソードの冒頭には「神明を労して一と為して、而もその同じきを知らざるなり」とある。
これは「賢い奴は苦労して一つの真理を探してるけど全部同じですよ」ってことで、さらにこう続く「こういうバカのことを朝三暮四という」と。
うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと
最近では陰謀論なんかが流行ってて「真実に目覚めてしまった人」というのがけっこういるけれど、荘子はこれに対して真の目覚めとは何かという答えを書いている。
真の目覚めとはこの現実もまた大きな夢だと知ることだと。
これがかの有名な蝶になる夢をみた男が目を覚まして自分が蝶の見ている夢なのではないかと思ってしまう「胡蝶の夢」の真意なのだそうだ。
蝶であろうと人間であろうとその本質は変わらないのだという。
でけぇ木の話
個人的にお気に入りなのが「無用の用」として語られるクソデカ大木の話だ。
とある都市の御神木がとにかく信じられんくらいデカくてみんなが見上げるほど立派な木なのだけれど、大工の棟梁だけはそれを気にもしない。
どうしてか尋ねると「あの木は役立たずの木だからだ。どんな用途にも使えない完全なる役立たずだからあんなにデカくなるまで長生きしたんだ」と答えた。
するとその日の夜に大木が棟梁の夢に出てきて「役に立つ木はその能力があるせいで枝を折られて果実をもぎ取られる。こちとら役に立つ気がないからこそ長生きしとんじゃい。てめぇの方こそもうすぐ死ぬ役立たずじゃねぇか」みたいなことを言ってくるという話。
役に立ちゃいいってことでもないよね、という話だ。
余計なことをしない
荘子の話はけっこうファンタジーに溢れているのだけれど、その分、自然の成すがままにすることの重要性がより際立つ。
要するに能力がある人と言うのはその能力のせいで余計なことをして自然の摂理に逆らうからすぐ死ぬのだと言う。
合気道だって腕力のある人や闘争心が強すぎる人はそのせいで技が止まってしまう。
余計なことをしないというのは、自分が無用のものだということや、夢と大して変わらないということを知ることでもある。
不自然をやめる
物理法則といった自然のものに逆らわないでいられるからこそ、自然に技がかかったりするんじゃねぇかなと思う。
不自然に力を使うから、流れが切れる。
歯車は距離が近すぎれば噛み合いすぎて回らなくなってしまう。
そういう不自然なことさえしなければもっと自由に合気道ができる。荘子ってのはそういう話だとおれは思ってる。
思想の根本としての道が老子であり、身体や思想の不自然をやめることが荘子、みたいな感じだ。
マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?