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型を理解するというのはどういうことなのか考えてみた:フレームワークやマニュアルの理解について

守破離という言葉があって、芸事などにおいてはまず型を守り、そして型を破り、型から離れつつも本質は忘れてはいけない。みたいな感じで言われている。

現代でもマニュアルとかフレームワークとか、色んな形で「型」が存在している。もちろん合気道でも型稽古が中心で、決まった形みたいなものを二人一組で稽古していく。

ところが、この同じ形をやっているにしても上手な人や下手な人がいる。うまい人というのは多分マニュアルが何なのかを理解している人なんだと思う。そんなことを合気道の稽古から考えてみた。

型が教えてくれないこと

根源的な型やマニュアルで考えてみると、例えば英会話の定文みたいなものだと思う。

学校で教えてもらえるような文章は確かにそれさえ覚えれば、最低限のコミュニケーションはできる。

でも実際に英語でコミュニケーションする時は単に定型文をしゃべるよりも複雑な要素が必要になっていく。

そういう要素のことを武道では「隠されている」とか「秘伝である」とか「失伝した」とか言っている気がする。

型の外側にあるもの

合気道でも現代の型を批判したり、独自の解釈を披露している人がいる。
過去にいた人で言えばボクシングから入った黒岩洋志推師範とか、空手や居合も研究した西尾昭二師範あたりだろう。

彼らの説明の共通点は「型の動作に入る前も入った後も、いくらでも致命的な攻撃が入る」ということだ。

型の上では存在していないけれど、実際に闘争することになった時は型にある技の途中でも攻撃されたり攻撃したりする機会がある。

攻撃する側、される側の理解によって型は姿を変えていく。
単なる英会話だけでなく専門家同士の会話になってくるとただ英語ができるだけでは理解できない領域へと変わるのにも似ているんじゃないだろうか。

型を理解するとは?

英語の定型文をしゃべってる途中でも会話に入ってこられたりするし、英語ができれば定型文を短くしたり省略したりもできるわけで、そういうことは型稽古でも同じだ。

いつでも攻撃される可能性はあるし、それを防ぐためにこちらもいつでも攻撃できる。その理解を持った上で型をやっていく必要がある。

さらに踏み込むと相手は攻撃できず、こちらは一方的に攻撃できる形をつくる必要がある。型の外側を知ることで、型そのものを対応できる形へと変えることに繋がっていく。

それが本来の型のあるべき姿だったのかも知れないし、それはもしかしたらより進歩した姿かも知れない。
なんにせよそこに「理解」がない限りは型を活かすことができていないのだろうと思う。

オマケの引用

「ええとね、これってある作家が言ってることなんだけど、どんなことでも最初にやった人というのは、やむにまれぬ気持ちがそうさせていることが多くて、だから本人にしてみれば、その努力というか、行為というのはその気持ちのおまけみたいなものなのよね。
でもあとでその行為だけを真似するというのは、その気持ちの方をすっ飛ばして結果だけが一人立ちしてしまっているわけよ。
例えば天才的なギタリストがいて、独自のすごい演奏をして、それが伝説になり、みんなに真似されても、でもその人がそういう演奏をしなければならなかった理由の方をみんなは理解してくれたか? 彼は幸福だったか? とかまあ、そんなような話なわけね」

上遠野浩平『ロンドン・コーリング』より


マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?