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20230803 祭と酒

 先日,石村萬盛堂博多夜ばなし第7回『博多の夏博多祇園山笠』を拝聴した際に,「2023年の博多祇園山笠は4年ぶりの完全復活」であり,「2022年のものは正規のものとは捉えられてはいない」ことが指摘され, 2022年では行われなかったこととして「直会」が挙げられることについて書きました。
 
 直会については,「祭が終わったあとの打ち上げ」と言ってよいと思うのですが,そこで行われる対人相互作用こそが祭による地域の結びつきをつくるものだと思っているので,いつか絶対に見学させて欲しい!できれば自分もその祭の周辺的な担い手として参加させていただいた上で,直会を参与観察させてほしい!とずっと思っております。
 
 で,何故私が直会にそんなに憧れるか…というと,やはりそこが酒の席であることも大きいと思います。お酒がないとコミュニケーションが取れないとか飲食を共にして初めて見える人間性があるとかはあまり考えていませんが,その場で酒を飲んでいる人がいる以上,飲まないでいる人もなんらかの「いつもと違う何か」を参加者全員が提供し享受しあうことが求められるという不思議な空間をお酒は造ると思うので,祭というそもそもがハレの状況で更に酒によるハレを求められる直会という場で何が起きるのかを記述出来たらとこれまでずっと思っておりました。
 
 こうした「祭と酒」の関係については,きっといっぱい研究があると思うのですが,あまり論文として文字として固定化するべき内容でもないからか,意外と具体的な記録がなされていることは少ないように思われました。なんというか「酒」=「神聖」,「信仰としての飲酒」などの説明はなされても,「よっぱらったA氏が無茶なことを言ったから喧嘩が起きた」などの事象は論文化のプロセスで削られることの方が多いのだと思われます。
 
 そうした印象を持っていたので,今日祭に関して「matsuri」という検索ワードで海外文献を探すことをしていてみつけた以下の論文に目を通した時はびっくりしました。
S. Schnell (1997). Sanctity and Sanction in Communal Ritual: A Reconsideration of Shintô Festival Processions. Ethnology, 36(1), pp. 1-12
Published By: University of Pittsburgh- Of the Commonwealth System of Higher Education

 以下,祭と酒に関する記述についておおざっぱにまとめたものを箇条書きで挙げさせていただきます。
 
・酒を飲むことで神輿がぶれたりするという不確定性の中に「神の意志」をみたりする
・和を重要視する日本では通常はオープンな発言はできないが,酒に酔うことでそれが許される状況になる(無礼講的)
・酒の場では何を言っても許され忘れられるべきである(中根,1970)
・酒が入ることで,公的ではない私的な本音で語り合える
・通常のインタビューで得た回答について,酒席で「そんなのは嘘だ」と否定されることもあった(本音を採集できていない)
・権威への抵抗の手段にもなりうる
・攻撃や暴力的な行動を許容するきっかけにもなりうる
 
 1つ1つの指摘はごく当たり前と思われましたし,祭に深く関係した視点は最初の1つくらいかもしれませんが,このような酒の効果について祭研究の文脈でまとめられているものを海外の文献で見つけてびっくりしました。
 
 今日も時間が無くて全然文献をじっくり読めていないので嘘八百を書いてしまっているかもしれませんがなにとぞお許しください。

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