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20230217 祭の中の子ども

 昨日に引き続き先輩からきたメールに答えようとしております。祭のなかでの子どもの意味などについて,「プレモダンとポストモダンのような。」とか書かれていてよくわからない…モダンといえばモダン焼きくらいしか思いつかないので京都でモダン焼きをおごってもらおうと検索してみると,出町柳にモダン焼き専門のお店「フジ」というのがあるそうですね。あああこれ食べてふたばの豆大福食べたいザマスね…。

 
閑話休題
 
 気を取り直して論文検索をしていると,最初に出てきたのが以下の論文。祭の主体としての子どもどころか,神様のよりどころとしての子どもについて,しかも播磨の祭について書かれた論文なんてカンチャンずっぽし。最近本当に私論文のひきがいい気がします。
越智みや子 2018 祭礼に登場する子ども : 播磨地方の一つ物考. 史泉(関西大学史学・地理学会), 127, 14 – 30.

 
 一つ物についての説明を以下に引用します。
 

各地の事例に共通して見られる特徴としては、

 ①祭りで神意を伺うために神霊を移らせる「神のよりまし」と言われることが多い
②五、六歳の男児が務める
③地面に足を付けてはならないとされ、大人の肩車や馬などで移動する
④この役が登場しないと神事が始まらないと言われたり、神幸行列で神輿の前を進むなど重要な役割をする
⑤山鳥の尾羽や造花、薄などを身に着け、紙垂などをつけた笠を被り、化粧をする、または素顔が見えないようにしている 

などがあげられる。

 で,播磨地方でこの一つ物に相当するものが存在する祭として,兵庫県内だと神吉八幡神社,崎宮神社,高砂神社,曽根天満宮,大塩天満宮,播磨国総社(射楯兵庫主神社),坂越大避神社,東有年八幡神社,赤穂八幡宮が挙げられていました。
 
 このあたりって秋の「灘のけんか祭」で有名だよな~と。そこでふと思いついた何の根拠もない妄想を以下に書き連ねたいと思います。
 
 祭の際,御神入れなどでお神輿や山車などを「神格化」することが多いと思います。博多祇園山笠などでは,山台の上に人形が据えられたあとで「御神入れ」がなされ,その後は舁き手以外は山笠に触れてはいけなくなっていたと思います。
 で,こうして,山笠自体を神様としてしまえば,あまりそれを手荒なことできなくなるような気がします。舁いたり曳きまわす際に「山笠」や「山車」自体が荒っぽく動くことはよくても,「山笠同士」「山車同士」が「けんか」をするのは神様同士のけんかになってまずいのかなと。
 
 そう視点で言えば,「一つ物」として「神のよりまし」を神輿から分離することで,神輿同士を「練り合わせ」させるのに理解が得やすいのかもなあと思ったりしました。
 
 あと,国府宮のはだか祭で神男となった人にいっぱいの人が群がる様子を見ると,具体的な大人が「神のよりまし」になると,誰がなるかでの争いがおきたり,大人の中での上下関係や階級闘争などが起きたりして大変なので,子どもにその役割を努めてもらってきたというのはあるだろうなとも。長老は祭の当日裏方をまとめる役割があるだろうから,そういう役割がない子どもが神様の役割をするのは至極合理的だなと。
 
 そんなことを考えると,翻って本当に子どもが主体の祭りがあるとしたら,対等な子ども同士の中で自分が抜きんでるために子どもは大人にどのような役割を付与するのだろうか…とか考えても面白いだろうなあと。

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