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20240122 generativityの難易度


 某先輩とgenerativityについて話していて,意見や解釈が違うな~と思ったのが,「何を持ってgenerativityが獲得されたというか?」という点でした。
 もう半年近く前に話したことのメモも何もない記憶に頼って書くので全然違うかもしれませんが,某先輩は「例えば地域の祭に参加していて,自分が子どもの頃にしていたことを,自分の子どもが同じようにしているのをみるとgenerativityを感じられて,それで獲得できるのでは?」とおっしゃっていたような記憶があります。
 私もその意見に賛成ではあるのですが「それだけでは弱いのでは?」「もっとすごいことが実現しないと獲得したとは言えないのでは?」と考えることがあります。
 
 このあたりの「generativityの難易度」と呼べそうな問題については,generativityの獲得の状況を測定するのにつかわれる尺度でも結構設定がバラバラなような気がします。
 
 generativityの測定には,おそらく世界で一番良く使われているのはMcAdams(1993)によるロヨラ世代継承性尺度(LGS)の20項目だと思います。以下に,岡本ら(2018)の中にあった日本語訳の項目を引用します。

【書誌情報】岡本祐子・上手由香・高野恵代 2018 世代継承性研究の展望 : アイデンティティから世代継承性へ. ナカニシヤ出版.

私は,自分の経験から得てきた知識を伝えようと試みている。
私は,だれかが私を必要としているとは感じない。
私は人に何かを教える仕事をしたいと思う。
私は,これまで多くの人々に重要な影響を与えてきたように感じる。
私は,ボランティアをすると自分から進んで申し出ることはない。
私は,他の人にインパクトを与えるようなものを作り出してきた。
私がするたいていのことに対して創造的であろうと心掛けている。
私が死んだ後,長い間人々の記憶に残るだろうと思う。
社会は,すべてのホームレスの人々に食べ物や住居を提供する責任は持てないと思う。
人々は,私が社会にすばらしい貢献をしてきたというだろう。
もしも私が自分の子どもを持つことができなかったら,養子をもらいたい。
私には,他の人に教えようと思う重要なスキルがある。
私が死んだ後に遺るようなことは何一つしてこなかったと感じる。
私の行動は,たいてい他の人に良い影響を与えない。
人々に貢献するような価値あることは何一つしてこなかったように感じる。
私は人生において,多くのいろいろな人々,集団,活動に積極的に関与してきた。
人々は私のことをとても生産的な人物だという。
私には,私の住んでいる地域をよりよくする責任がある。
人々が私にアドバイスを求めてくる。
私の貢献は私が死んだ後も残るように感じる。

 これらの項目をみると「かなりハードル高い」と思われるのではないでしょうか? 他の人にインパクトを与え,長い間人々の記憶に残るようなものを残せているか…というと全然だめだなあと自分は思います。
 
 対して,高齢者を対象に作成された(時間が無いので細かいことはまた別記します)村山ら(2022)による尺度を以下にあげます。
 
【書誌情報】
村山幸子・小林江里香・倉岡正高・野中久美子・安永正史・田中元基・根本裕太・松永博子・村山陽・村山洋史・藤原佳典 2022 改訂版世代継承性尺度(JGS-R)の作成と信頼性・妥当性の検討. パーソナリティ研究, 30(3), 151 – 160.

自分の人生について若い人たちに語ることで,彼らを支援する
自分自身の経験を若い人たちに語る
若い人たちにアドバイスをする
他の人に影響を与えるようなことをする

自分の経験を他の人と分かち合いたい
若い人たちの良き助言者となりたい
将来にわたって他の人のためになるような何かをしたい
新しい事や,新しい方法をつくりだしたい

世の中に恩返しをしているような気がする
功績として残せるようなことをしているような気がする
地域に役立っている気がする
他の人の人生に影響を与えている気がする

 こちらだと,「結構できている」と答える人が増えるのではと思っています。
 
 今回上げた2つの尺度が難易度で言う両極端にあるとしたら,現在日本で使われることが多い既存の尺度はその中間位にあるように思えて,「尺度で難易度がかなり異なる」状態だなあと思っています。このあたりをどう処理していけばよいのかを考えるのが今後の課題だなあと。

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