見出し画像

「内緒で寄付をする人」も偽善では?純度100%の「善行」なんてない。

このタイトルをみてどう思われるでしょうか?

しばしば世の中では自身の名前を公表して実施した寄付や施しは「偽善」だと捉えられます。もっと進めば「売名行為」「人気取り」だと罵られます。

一方で「実名を伏せて行った寄付や施し」は称賛されることが多いように感じます。

特に匿名での寄付や施しが後に著名人や資産家が行ったものだと発覚した際はその様相が顕著です。まさに英雄のよう。

しかし私は後者のように内緒で善行を積んだ人の動機にも少量の不純物、例えば「自身の信条に則ったという自己満足を得たい」や「神への信仰」、「ごく少数の周囲から認められたい」のようなものは”必ず”混じっているのではないかと思い立ちました。

それが極々少量だったとしても混じることには変わり有りません。

そのことより私は、「純度100%の善行」などないと思うのです。

善行の価値が「結果」より「動機」で決まる矛盾

画像1

そもそも善行の価値が「結果」より「動機」で決まるという構造がもはや矛盾しています。

善行とは「世の中にとってより良い価値を与えること」と定義できるわけですが、それにも関わらず社会的には「どれだけ良い価値をもたらしたか」よりも「何故それを行ったのか」という動機にフォーカスされます。

そしてその動機が「自己犠牲」の上に成り立っていればいるほど良いとされるのです。これは馬鹿げていると思うのです。

単純に考えれば大富豪が100億円で基金を立ち上げ広く市民にも寄付を呼びかけた場合と、黙って100億円を寄付した場合であれば確実に前者の方が価値があるはず。

市民に寄付を呼びかけなくても、他の富豪が追従したり、市民の社会貢献に対する意識に変化をもたらすことができるかもしれません。

もちろん社会の目は設立者を敬うでしょうが。

でも敬われて当然といえば当然なのでそれを批判する理由も分かりません。善行の価値は「結果」にこそあると思います。

「純度100%の善行」=「動機が『社会(自分を除く)のために100%尽くそう』と考えた場合」

画像2

冒頭で「純度100%の善行」などないと言いましたが、これを噛み砕くと「動機が『社会(自分を除く)のために100%尽くそう』と考えた場合」というように言い換えられると思います。

しかし実際にこれを実行に移すことは神様以外にはできないのです。

なぜなら『自分を除いた社会』というのはそもそも成立しないから。

他人と関わる以上は必ず自分自身も社会の一部となります。何かアクションを起こせば必ず反応があるのです。

そのことは「自身の信条に則ったという自己満足を得たい」や「神への信仰」、「ごく少数の周囲から認められたい」という動機に嫌でも繋がってきます。

最初は漠然と「社会のために」と動いても、進めているうちに1人でも「褒められたり」「感謝されたり」ということがあればそれが後から動機へと変わります。

確実に自身が神の目線で支援ができていたかと言い切れなくなるでしょう。

また、仮に周囲の誰にも知られなかったとしても支援を受け取った人は必ずいるわけで、その人達が嬉しそうな顔をしているのを知ればそれもまた後から動機になってしまいます。

支援を受け取った人がいるという事実に対して、嬉しいという感情を抱いてしまったらそれはもう純度100%とは呼べないのです。

だから私は「善行の価値」はその影響力や結果で評価されるべきだと思うわけであります。

「偽善警察」の正体の仮説

画像3

動機に重きをおいた純度100%の善行を求め、売名行為として認定したアクションには即座に「偽善者」のレッテルを貼って回る「偽善警察」の人々は一体どうしてそのような行動に出るのでしょうか?

おそらくは3パターンあると思ってて、まず1つは成功者に嫉妬している人です。

多額の寄付をする人は自ずと成功者と呼ばれる人であることが多いですが、その人達にはどうしても「性根の悪いヤツ」であって欲しいと思ってしまうものです。

商売のセンスや自身の才能・努力でその地位を勝ち取った人にはどうにか人間性だけは悪くあって欲しいもの。

同じ人間でありながら富・才・名誉・人間性全てが自分より上回った人がいるという事実が気に入らないのではないでしょうか?

残す2つのパターンは黙って寄付した人。もしくは寄付したくない人。

黙って寄付した人は、寄付を公表した人がちやほやされているのを見ても面白くないですよね。

寄付したくない人は言わずもがなです。自分のところに寄付の打診が来てしまっては困りものですからね。

まとめ:早く寄付公表が当たり前の世の中に

まとめ1

このままでは、いつまでも「偽善警察」が大きい顔をしているから日本で寄付文化が育たないのです。

日本人の多くは奥ゆかしさを持っていると言われていますが、同時に見栄っ張りな一面もあるはずです。

この寄付公表の文化が厚く広まれば必ずや富の再分配がより上手く機能するロールモデル国家の1つになれると考えます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?