立ち上がるための戯曲/三谷幸喜『オケピ!』(2001)

 ひきこもりながら戯曲を読もうと手にとったひとつめの作品は、まったくもってひきこもるための本ではなかった。

 戯曲という文学(?)は、とても不安定なものだとおもう。そもそも、台本となにが違うのかわからない。完成とされるのはいつなのかもわからない。読み上げられてはじめて戯曲なのか?しかし、稽古中、上演のためにすこしでも書き換えられたときにはもう、すでにそれは劇作家の手を離れているだろう。

 わたしは、再演を望まれるものが戯曲なのではないかと思っている。たとえ舞台として上演されたことがなかったとしても、これから先この台詞が立ち上がり、出来事として起こるのだと期待されるもの。そのように現実に影響するものなのではないか。

 などと考えていたのは6畳のこの、ワンルームのなかでのことである。そのような期待をもった、ひとつひとつの文字はこの小さい空間の頭のなかでも十分に発揮してくれると思っていた。

 三谷の「オケピ!」は、うちにこもっていくわたしを一度ぶちこわすことになる。そもそも、後書きで三谷はこの作品が出版されることを拒んでいたとかかれる。これから他者によって上演されることも嫌がっている。三谷作品は観るものであって、読むものではないのだ。

 セリフのひとつひとつ、役者にこう立ち振る舞ってほしいというポジティブな期待にあふれていた。俳優の魅力がいちばんに発揮されるための言葉たちによって、それは現れている。しかし、三谷が行っているのはキャラクターの押し付けではない。俳優が自由気ままにふるまうため、ただ場を与えているだけでもない。

 その瞬間、最大風力で劇的な出来事を作り出すための言葉を、俳優へ託しているのだろうとおもう。起こりうる笑いは、俳優をただ貶めるものではない。同時に好感が湧き、最大に輝いてみえるだろう。ここにある全ては当時の、その俳優たちに向けてだけ書かれたものである。

 この本にあるものは、この作品が上演されたのだという、あまりにも明るい記録だった。

 演劇は実際に観なければわからないと、訴えかけられるにしては爽やかだった。話すため立ち上がりたくなった。わたしもまた役者でありたいのかもしれない。

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