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キリギリスの親子はあの日、少女の心に一つの種を落としていった

ギィィィイーーッチョン!
ギィィィイーーーーーッチョン!!!

小学2年生の夏。
我が家では朝から晩まで、玄関の虫かごからキリギリスの声が鳴り響いていた。
勉強していても、ご飯を食べていても、弟と取っ組み合いの喧嘩をしていても、
BGMはいつも、キリギリスだった。
…気ままに揺れるスローなテンポ、鼓膜を揺らす尖ったサウンド、暑い夏をさらに熱くする、魂の歌声!

虫かごのメンバーはオスとメス一匹ずつ、
歌うのはオスだけだ。
だけど、メスの方が体が大きくて、強かった。立派な太腿から繰り出されるジャンプは、彼女の方が少しだけ高く遠くに跳べる。
餌のナスやキャベツを虫かごに入れると、最初に食らいつくのはやっぱり彼女だ。

…オスはいつでも、彼女の気に障らないように、遠慮がちに食べていた。
人間界だけでなく、虫界にもいろいろあるのだと、気づき始めたのはちょうどこの頃だったと思う。

小さな生き物たちとともに健やかに過ぎていく夏は、幼き日の私に、確かな情緖を与えてくれた。
(♪トゥルルル ル〜ルル〜 〜久石譲『菊次郎の夏』より"Summer")

季節が進み、秋の風が吹くようになった。
日が沈んで夜になると、全力で歌うキリギリスからバトンタッチするように、鈴虫の澄んだ声が聞こえるようになった。
道ばたで鈴虫が鳴くようになってから数ヶ月後、
二匹は虫かごの中で動かなくなった。

たしかに、冬になったらピンチになって、アリから笑われてしまうだろうけど、彼らは限りある一生を、全力で生きていた。
庭の片隅に、お墓を作って埋めた。


翌年。
雨がしとしと降る、肌寒い春の日。

彼らが住んでいた虫かご(階段の下に放置されていた)に、なにやら、1cmにも満たない黄緑色の生命体が飛び跳ねているのが見えた。

…ピョン

虫かごを持ち上げ、よくよく注意して目を凝らす。

ピョン!ピョンピョンッ!

…!!!

…赤ちゃんだった。
まぎれもなく彼らの、去年のキリギリスたちの、赤ちゃんだったのだ。

よくよく顔を近付けてみると、確かに、足は6本あるし、触覚も2本あるし、大きな目も2つ付いている。
色は、蛍光ペンで塗ったような綺麗な黄緑色。
あまりに綺麗でこの世のものとは思えず、
「いま地球に到着しました隊長!!」
なんて言いだしそうだ。

去年の夏、キリギリスたちが懸命に繋いだ命が、私が知らない間に土の中ですくすくと育ち、いま目の前でピョンピョン飛び跳ねている。
地球上で数え切れないくらい繰り返されている当たり前の営みなのに、なんだか奇跡を見ているような気持ちになった。

さすがに、虫かごいっぱいのキリギリスの赤ちゃんを育てていく自信はなく、赤ちゃんたちはもともと彼らの親が住んでいた庭に放した。
虫かごの扉を開けるなり、きみどり色の生命体は、それぞれ外の世界に飛び出していった。


"どうか元気で。"


その年の夏、クマゼミも顔負けの、鼓膜を揺らすサウンドが、庭から聞こえてくる気がした。