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#ポツンと一軒家の話

先日、所用で鹿児島へ出かけた。奄美大島も鹿児島県ではあるのだが、奄美の人が「鹿児島へ行く」「鹿児島へノボる」と言った場合、鹿児島市もしくは県本土へ出向く事を指す。
義父の従兄弟の奥さんが、我が家の隣で一人暮らしをしているのだが齢90になって身寄りも無い。オバチャンの支援関連の手続き等は、すべてわが家がおこなっている。近年は歩行も困難になり、認知機能に衰えも見えて来た。そこで2ヶ月前に老健施設に入所して貰った。県本土で暮らす弟さんから「姉の事はすべてお願いします」との便りを貰ってはいるものの、各種手続きには身内の承諾やサインや印鑑が必要な事もある。そこで、霧島市に住む弟さんを訪ねたのだった。
 
霧島市とは言っても弟さんが暮らすのは築100年以上のテレビ番組に出て来そうなポツンと一軒家で、こんな山奥まで無事に辿り着けるだろうかと心配した奥さんが、遠くから近づいてくる私たち夫婦の車を玄関先へ出て待っていてくれた。この家でわが家の隣のオバチャンも生まれ育ったのだと言う。飾らない老夫婦にもてなされ、ひとしきり話が済むと、弟さんが家の周囲を案内して下さった。
 
ポツンと一軒家には母屋の他に木材や工作機械を収めた巨大な作業場や、農業用の機械を収めた小屋があった。長年大工をして来た弟さんの手作りなのだそうだ。山腹の母屋から見下ろすと畑と田んぼがあり、老夫婦が食べるだけのものはそこで出来るのだと言う。家の裏には巨大な杉の木があり、その周囲は孟宗竹の竹林で覆われている。竹林の間にクヌギのホダ木が4〜50本並べられていて、シイタケが生っていた。
 
奥さんがプラスチック製の漬物樽のフタを取ると、中には家の周囲で採れた蕨がいっぱい水に漬けられていた。隣の漬物樽には筍だ。これだけの竹林があれば筍だって取り放題だろう。奥さんが、蕨と筍をぜひ持って行ってくれと懇願するように言うので、有り難く頂いた。
 
帰りの車中で妻と話した事は、長年山奥で暮らすとあれほどまでに邪心の無い人柄が出来上がるものかと言うことだった。都会にだって邪な心の無い人はたくさんいるのだろうが、ポツンと一軒家という環境が老夫婦を特別な存在に見せた。妻があまりにも老夫婦やポツンと一軒家暮らしを褒めるので、「あの人たちも都会の人波に揉まれたらあのままじゃないかもよ」と、私はちょっと反論してみた。「そうかな」と妻が言うので私は「あの人たちが素晴らしいからと言ってポツンと一軒家暮らしを称賛して都会暮らしを下に見るのはちょっと違うよね」と返した。
 
法華経では「不染世間法 如蓮華在水(世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し)」と説く。蓮華は泥水から花を咲かせるが、泥に染まることはない。世間の水が汚いからと言って山に籠ろうという考え方を法華経は否定する。仏教の本義ではここで、「世間の水が汚いのなら、じゃああなたはどうするの?あなたも世間の一部なのよ」と、エネルギーの転換を求める。世間の苦しみは自分の苦しみであり、自分ひとり山中に逃避してどうにかなるものではない。
のどかなポツンと一軒家の話が、とんだ説教になってしまった。

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