#40 あの頃
私が佐呂間高校を卒業したのは昭和60年の3月で、もう38年も前の事だ。その後は仙台の大学へ進学し、そのまま就職して東京、愛知県、そして奄美大島へと移り住んだので、私が佐呂間で過ごした18年間よりも20年も長く道外で暮らしている。それでもやはり当然ながら故郷は故郷で、これまで移り住んだ土地で佐呂間以上に縁とゆかりを感じる土地はない。北海道で生まれ育ったことは私の基底部を形づくっているプライドでもある。また「北海道の人」という言葉は、内地ではそれだけで特殊な印象を持って貰える、そこそこのパワーワードでもある。
先日の帰省では懐かしい場所をもっと巡ってみたかった。
その昔、私の家は宮前の小公園の前にあった。畑の中にポツリと住居があり、そばに馬小屋と豚小屋、石炭小屋と野菜を入れておく室(ムロ)があった。馬小屋の前にはブロック製のサイロを取り壊した跡が円形に残っていて、そのあたりに初代愛犬のメンメが繋がれていた。私が生まれた頃にはもう馬はいなかったが、豚が数頭いてわが家の残飯処理を担っていた。なのでわが家では生ゴミの事を「豚のエサ」と呼んでいた。私が小学校へ上がる頃には豚もいなくなり、かつて農家だった頃の面影は徐々に薄まっていった。
国土地理院のウェブサイトで今と昔の航空写真が公開されている。当時の写真を検索すると、わが家の馬小屋や石炭小屋、車庫などがしっかりと確認できた。
子供の頃、保育所へ行くには、敷地内の水田横の道を数十メートル歩いてまず本道へ出る。そこから植田自転車屋さん前の大通りへ出て横断歩道を渡り、馬具屋さんや政岡精肉店、同級生のいる工藤菓子店の前を通った。天光堂の前で伊藤金物屋さん側へ横断歩道を渡り、オババの店の前を通る。普段は弁当を持たされていたが、たまに親から「オババでパン買って行きなさい」と小銭を持たされる事があって、そんな時には薄暗い店内のパン棚からカステラパンを選ぶのが定番だった。役場を過ぎると草野商会がある。ここは伯父の店で、いつもタイヤや溶接の匂いがした。従業員のサブちゃんと目が合うといつも「よっ」と手を上げてくれた。そこから踏切を渡ると中学校のグラウンドの手前を右折する。この先にかつて小学校があった。小学校を過ぎたところで脇道に入り、数十メートル歩くと保育所に着いた。保育所のドアは観音開きの重いガラス戸で、開けるときにはいつも深呼吸してからウンショッ!と踏ん張って開けなくてはならなかった。若い先生たちが立って出迎えてくれた。保育所の昼寝の時間には運動場にタオルケットが敷かれてそこに横になって眠った。私は寝つきが悪く、いつもキラキラ光る運動場の天井飾りを眺めていた。大人になってもこのキレイな色を覚えていられるかな、などと考えていた。
保育所から小学校へ続く細道の横は北斗林産の工場で、煙突からいつも白い煙が上っていた。工場から響くボーっという稼働音を今でも思い出す。帰り道は天光堂の前から丸子電機の方へ横断歩道を渡って植田自転車屋さん方面へ向かった。途中で多田商店の前を通ると、夏には新鮮な果物や野菜の匂いが歩道に流れて来て何だか幸せな気分になった。植田自転車屋さんから左折すると家までは一本道である。5歳の頃までこの道はバラスの敷かれた砂利道で、一度ここで走って派手に転んだことがある。バラスが右膝に食い込んでたくさんの血が出た。半ベソをかきながら家に帰るとじいちゃんが仲良しの井谷印刷のじいちゃんと将棋対局の真っ最中だった。お互い真剣である。「じいちゃん血が出た」と言うと、ホレッとタバコのヤニで茶色く汚れたハンカチをノールックで手渡された。それで押さえておけと言う。子供ながらにこんなハンカチじゃイカンと思った。頼れるものは自分しかいない。台所から裏口を開けたところに、いつも漬物樽にいっぱい水を溜めてある。そこから小さな手のひらで水をすくって膝を洗った。何もないので仕方なくじいちゃんのハンカチで膝を押さえていたら、ほどなくして父が帰宅した。「転んで血が出た」と父に訴えたが「こんなのすぐに治るべ」と言われてガッカリした。50年経った今でも右膝にこの傷跡は残っている。深かったのだ。
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