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侮蔑心の取り扱い

 「あなたはあの人のことをどう思っていますか。」
 先日、ある人に対する評価を求められ、あまり良くない評価であることを伝えなければならないシチュエーションに遭遇しました。その際、どのように言い表すかに迷った記憶がよみがえってきましたので、少し考えてみたくなりました。

 私には気をつけていることがあります。それは侮蔑語に分類されるような語を用いることなく表現しようとするのです。比較的親しい関係にある知人に尋ねられたとしても、その姿勢を貫こうとします。尋ねた方がもっと単刀直入な表現をするよう求めることもありますが、自らの語彙力を試すが如く、口悪く感じられるような語を使うことを避けるようにしています。

 しかし、そのようなことを心がけているからといって、私に侮蔑心がないことを意味しているわけではありません。他者のそれと比べたことはありませんが、私も人となりの侮蔑心を持ち合わせていると思っています。心の中で思うことと、その思いを表出することは次元が違っているということなのでしょう。

 「あなたが尊敬する人は誰ですか。」
 人がよく訊く事柄です。学校現場においては尊敬することを奨励していると聞いています。私はいつも思うことがあったのでした。それは「尊敬に値しない人に対する感情をどのように考えさせているのだろうか。」という思いなのです。

 尊敬の反対語は侮蔑です。尊敬心を養うことの重要性を説くのであれば、侮蔑心に対することにも同じくらいの労力を費やさなければならないように感じられて、バランス感覚を失わせてしまわないかと心配になるのです。侮蔑心はいけないものだとレッテルを貼っているだけでは、どうしても不全感を覚えてしまうのです。

 ネット界隈において、他者に対する誹謗中傷が横行しています。そのような言動をする人たちはそれが人権を侵害している行為であることを理解していないために生じるのだと捉えられているように映っています。果たして本当にそうなのでしょうか。

 いわゆる「人権教育」が行き届いていないなどと、声高に叫ぶつもりは毛頭ありません。教育を受けた後に、インターネット経由で触れる情報によって、教育された事項にきれいさっぱり上書きされてしまうかのように、簡単に真逆の行動を取るようになることを憂いている立場です。生徒たちに綺麗事だと受け止められてしまうことをとても憂慮しているのが実情なのです。その上で、どうしても違和感を禁じ得ないことになってしまうのです。

 尊敬と侮蔑のバランスを欠いてはいまいか。
 尊敬に対するある種の強制が存在してはいまいか。
 尊敬心に対する同調圧力が過ぎてはいまいか。

 他者を尊敬する感覚を持ち合わせていることと同じように、他者に対して侮蔑する感情を抱いても構わないのです。ただ、その感情を表出する際には注意を要するのだという事実を知っておく必要があるだけです。

 「あの人は他人をけなさない。」そう感じていたとしても、その人に他人を蔑むような感覚がないわけではありません。他者が嫌がるような事柄を口にしたり書き表したりすることを控えるように心がけているだけなのです。

 ふと、今現在も私が尊敬している方とのエピソードが思い出されました。その方は抱いている感情と表出している感情に絶妙の間合いを感じさせてくれ、その心地よい雰囲気の醸し方に思わず唸ってしまうほど感心させられたのでした。

 「人たるもの、こうありたいな。」
 その感覚を今でも忘れることができません。

 尊敬と対を成す侮蔑。
 侮蔑については尊敬とセットで理解することが大切だと思います。

   

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