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韓国語の学習を始めた頃の話

とにかく不便…

とにかく変な目で見られる…

僕が韓国語の学習を始めた頃は、まさにこんな時代でした。学習を開始したのは今から20年以上も前。1997年のこと。社会人になって英語以外の語学を学ぶ時点で、少し頭がおかしい。そのうえ、当時マイナーだった韓国語?

はぁ?と周りに言われ、とぼとぼと独り学校を探す私。当時の福岡には韓国語の学習塾は2校しかありませんでした。インターネットにも大した情報が無く、ましてや学校の情報なんて、留学生交流センターの張り紙を見て探したほど。

で、なぜ学習を開始したのか?

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きっかけは2002年ワールドカップ日韓共催が決定したことにさかのぼります。その当時、私は社会人4年目~5年目に差し掛かるころ。このエポックに加え、韓国への渡航や取材は自らも以前より希望していたこともあり、念願かなって仕事で韓国を訪問することができたのです。

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1998年当時はアジア通貨危機の真っただ中。そんな中での景気浮揚の期待もあったのがワールドカップの共催でした。会社はなかなかに過酷で3日程度の滞在で3本の企画ネタの取材を敢行。①リポーターによる日帰り釜山ツアー(的な旅モノ) ②ワールドカップ日韓共催に関する現地の雰囲気リポート ③アジア通貨危機で日本への留学をあきらめた留学生と家族の取材 という硬軟いろいろです。

海外取材は、コーディネーターや通訳で、企画成立の99%が決まると言われており、事前段取りがすべてなのですが、この事前段取りで対応しようがないのが「街頭インタビュー」です。ところが。。。

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通訳交じりだと、本音をしゃべってくれないのですね。ありきたりの話ばかり。こんなコメントなら収録する意味ないよなーってな、上っ面な話。

当たり前ですがインタビュイー(話す人)が悪いのではなく、インタビュアー(聞く人)が悪いんです。櫻井よしこさんが著書で「海外取材は相手の国に乗り込んで、相手国の言語で尋ねないと本音は引き出せない」と言っていました。この経験が、韓国語学習のきっかけでした。

ところが、当時の福岡の韓国語学校は初級コースのみ。挨拶や基礎で終了なのです。たまたま私の恩師は熱心な方で、弁論大会への参加や個別学習などさまざまな対応をして下さったのですが、思い切って新たな学習方法を相談してみたところ…

「私の母校の先生の所に行ってみない?」と言われたのです。激務の連続で1カ月近く分、代休やら有休が蓄積されていたこともあり、その消化を兼ねて渡韓しました。行った先は釜山市の東亜大学。

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ハダンという学生街でした。ここに行くまでが一苦労。既に韓国語学習が始まっていました。金海空港に着いたら電話をするように言われており、公衆電話を掛けたところ、たけたけしい声でおっさんが「○△×※○○!?」などと言うわけで。。。必死こいて、言っている言葉をカタカナで書き止め、おもむろに手元にある日韓・韓日辞典を駆使して、何と言っているか?を探りました。。。

ハダン…パチュルソ…アペ… どうやら、ハダンは地名、パチュルソは파출소かぁなどと読み解き、14時までにそこに来い!と

タクシーをぶっ飛ばして、現地に着いたところで学習はそのまま開始。1カ月間、スパルタが続きました。1日40個の単語を覚えるまで宿舎には帰れないと言われ。

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翌日からの教材はスーパーマーケットのチラシでした。ここにある魚の名前を全部覚えろ…と。

「いや、先生 おいら放送局の取材のために語学が必要なので…」と漏らしかけたところ「いいから、やれ」と。そこからは延々、魚の名前を覚えさせられました。

オジンオ ジャンオ コドゥンオ … はぁ俺、50000円払って韓国来て、何やってんだろ?と初日・2日目と思ったものです。

韓国で夜の飲みニュケーションの経験がある方なら、もうピンと来ると思いますが、韓国語で「魚の名前」って結構大事ですよね。私はこの時の経験のおかげで、韓国における夜の食事の場では困ることもなくなりました。

あの魚が好き!この魚が美味い!を韓国語で言い続けると、相手の胸襟を開くことにつながることを、知ったのはこのスパルタを受けた翌年くらいからだったかな…と。

語学の勉強って、教えてくれる方には確実に、経験に基づいた隠れた意図と教えの目的があります。素直に謙虚に学ぶ姿勢を持つことが何よりも大切であることを体感した経験でした。

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