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恋の終わり、「からかい」の死──「劇場版からかい上手の高木さん」について【ネタバレあり】


 白状すると、そこまで期待していたわけではなかった。というより、期待しないようにしていた、という方が正しいだろう。アニメ3期の結末から鑑みるに、おそらく「高木さん」のアニメシリーズはこの劇場版をもって終わる。それがもしつまらなかったら……と思うと、とても耐えられなかった。実際、予告編が出た時は、「あ、これダメかもな…」と思ったりもした。(中3の夏に子猫を拾います、というあらすじで面白くなるとはあんまり思えなかったのだ)。
 けれど、それは杞憂だった。「劇場版からかい上手の高木さん」は人類史に残る傑作である。この文章は映画を見た数日後に書いているが、今もなお、途方もない満足感と虚脱感がぼくの中でせめぎ合っている。これほどの虚脱感を覚えたのは本当に久しぶりだ。もちろん、子供の頃は、そういうことがよくあった。あまりにも面白い小説、面白い映画を見たせいで、その面白さを自分の中で消化しきることができず、ぐちゃぐちゃの感情のまま、ただ抜け殻になったような気持ちに襲われていた。それはちょうど、すばらしい夢を見てしまったのに、あっさりと目が覚めてしまった時のような──そして、その夢の世界に二度と戻れないと悟った時のような気持ちだった。
 ともあれ、ひとまずはこう表現することができるだろう。「劇場版からかい上手の高木さん」とは、「からかい」の死とその弔いの物語である、と。

● グリコ、歩幅、背比べ

 本作が傑作であることは、冒頭の5分を見ればわかる。長引く梅雨、雨模様を憂鬱に見つめる西方、「相合傘」をめぐるからかいは、けれど雨が上がったことによって終わりを告げる。映画はからかいの失敗によって始まり、それを失敗させたものを、けれど肯定的に捉え直すことによって幕を開ける。「夏、始まるね」と。完璧なオープニングである。
 そして、晴れた夏空の下を、二人は「グリコ」のゲームをしながら帰宅することになる。原作ファンなら誰もが知っている、あの「グリコ回」である。これは原作でも屈指の衝撃回で、なぜならこのエピソードのラストで、高木さんは西片にキスをするからだ。(記憶が正しければ、高木さんがキスをしたのはこの回のみである)。当然、観客である我々はその結末を知っている…のだが、なんと映画はこのエピソードを改変し、二人はキスをせずに終わる。この時点で、すでに映画は観客に宣言している。これは恋についての物語ではないのだ、と。

 では、このグリコのエピソードは何のために挿入されるのか?オープニング曲が流れる間の、ただの尺稼ぎだろうか?もちろん、そうではない。映画は、この「グリコ勝負」を、二人の関係性を象徴するものとして取り扱う。
 グリコとは、じゃんけんをして、勝った方がその勝った手(グーチョキパー)に応じて前に進めるゲームである。この勝負を通じて、高木さんは常に自分が西片の隣を歩くように、ゲームをコントロールしている。二人はつかず離れずの良い勝負をしているように見えるが、それは高木さんの計算によるものである。そして最後の勝負で彼女はあっさり勝利し、西片よりも先にゴールする。高木さんは常に勝つ。それは彼女が二人の関係性そのものをコントロールしているからであり、その意味で、高木さんはいつだって、西片の前を歩いているのだ。

 映画が切り込むのは、ここで象徴されているような、2年半にわたる二人の関係性そのものである。そもそも、と映画は問う。高木さんはなぜ、自分から西片に告白しないのだろうか、と。(これはシリーズを追ってきた我々が抱く問いでもある)。
 高木さんの「からかい」は西片が少なからぬ好意を彼女に寄せていることを前提としているし、彼女もそのことは当然理解している。(だからこそ「からかい」が成立するのだ)。それでも、彼女は自分の好意を直接的に表現することはできない。高木さんは、そういう恋に臆病な少女として描かれているのだが、しかし一体何を怖がっているのだろうか?
 「自分の恋が実らないかもしれないこと」では、おそらくない。2年半もああいう関係を続けているのだから、そんな可能性がないことは彼女も分かっている。そういう聡さがあるから、「からかい上手」なのだ。高木さんの恋は、おそらく実る。そして、彼女が心の底で恐れているのは、実はそちらの方なのだ。「自分の恋が実ってしまうこと」、それによって二人の今の関係が何か別のものに、取り返しのつかない形で変わってしまうかもしれないこと。その変化を、自分がコントロールしきれなくなること。それが高木さんの心に巣食っている密かな恐怖であり、だから彼女は最後の一歩を踏み出すことができないのである。高木さんは、自分の恋が実らないことではなく、実ってしまうことを恐れている。
 彼女は常に西片の少し先を歩く。そうすることで、彼女は二人の関係を自分のコントロール下に置こうとする。それを永遠にしたいと願う。その願いが破綻する最後の一瞬を切り取り、「からかい」の終わりを見届けること。それが、この映画の使命なのだ。

● 「からかい」の死

 映画の前半で描かれる二人の関係は、これまで通りのものだ。高木さんがからかい、西片が負けて赤くなる。相合傘の落書きも、プールでの息止め勝負も、これまでのテレビシリーズの延長上にあり、いつも通りの高木さんの可愛らしさと、仄かな色気を堪能できるものとなっている。ここにおいて、高木さんは常に勝つ。ただしそれは、西片を相手にした場合のみの話である。
 映画を通して、高木さんはむしろ負ける。世界に対して負け続ける。相合傘のからかいは、突然雨が上がってしまったことで失敗するし、恋愛成就のホタルを見ることは結局できない。待合所で西片に向けてそっと伸ばした手は、けれどバスが来たことで彼に触れられないまま行き場をなくす。いくら彼女が大人びているとはいえ、所詮は15歳の少女に過ぎず、世界は彼女がどうにもできないことで満ちている。
 だからこそ、彼女は変化を怖がる。流れていく時間の、変わっていく世界の、その「どうにもならなさ」を恐れてしまう。それが、高木さんという一見無敵に見える少女の限界なのだ。
 この限界を最も端的に表しているのが、子猫の「ハナ」のエピソードである。映画の後半、二人は親猫とはぐれた白い子猫を拾い、神社の境内で世話をしながら、里親探しに精を出す。ところが、里親はなかなか見つからず、ついに高木さんは両親を説得して、自分の家で子猫を飼うことを決意する。
 高木さんにとって、ハナとはモラトリアムの象徴であり、西片と自分を繋ぎ止める存在である。これは、二人がハナと出会うタイミングが、一学期最後の日であること、まさに「夏休み中に会う理由」について話している瞬間であることからよくわかる。
 ハナという白い子猫がいる限り、二人の関係は「今のまま」で続いていく。高木さんは子猫を自分の所有物にすることで、その「今のまま」を少しでも長く、確実なものにしようとするのだが、まさにその寸前で彼女の試みは失敗する。二人が目を離した少しの隙に、ハナは別の子供たちに拾われ、その飼い猫となってしまうのだ。
 ここにおいて、高木さんの敗北は決定的なものになる。彼女は完璧に世界に負ける。それが決定的な敗北であるのは、自分と西片の「今のまま」の関係を託した存在を、彼女が永久に失ってしまうからだ。「今のまま」はもう戻らない。夏は終わる。中学生活も終わる。全てのものは流れ去っていき、高木さんにはもう、それを止めることはできない。世界の「どうにもならなさ」が、彼女を押しつぶす。
 子猫を失った帰り道、だから高木さんは、西片の前を歩くことができない。かつて、常に前を歩きながら、二人の距離を完璧にコントロールしていた少女の姿はそこにはない。高木さんは、今にも倒れてしまいそうな弱々しい足取りで、彼の後ろを俯き歩く。それは「からかい」の終わりである。高木さんの「からかい」は、世界の「どうにもならなさ」の前に敗北する。その足取りは重く、脆く、ついに彼女は立ち止まり、泣く。その涙の中に、「からかい」の色はもう見えない。

 「からかい」とは何だろうか。
 例えば、第一話の「消しゴム」において、高木さんは「消しゴムに好きな人の名前を書くと恋が実る」というおまじないの話をした上で、西片が自分の消しゴムを見るように誘導する。彼が消しゴムを見ると、そこには「ろうかみろ」と書かれており、廊下ではニヤニヤと笑う高木さんが西片を見ているのである。
 この話に即して言えば、「からかい」とは要するに「かもしれない」を二人の関係に持ち込むことである、と言える。「高木さんは西片のことが好きかもしれない」という可能性を、「からかい」は二人の間に開く。高木さんのセリフは常に二重の意味を帯びており、「AかもしれないしBかもしれない」と読めるようになっている。そして、最終的にそのどちらの意味に決着するかは、高木さん次第である。彼女はこの決定権を手放さない。それは要するに、この二人の関係において、常に高木さんが主導権を握っていることを意味している。
 しかし、第一話のオチは、実はこれだけではない。最後のコマで、西片が見た消しゴムの裏面には、本当に彼の名前が書かれていたことが示唆される。つまり、高木さんは西片のことが好きだったのだ!ここで彼女は、自分の本心であり答え(西片のことが好き)を、「からかい」の言葉(ろうかみろ)の中に紛れ込ませることによって、それを宙吊りにしている。(ここで重要なのは、西片がたとえ消しゴムの裏面を見ていたとしても、高木さんはあくまでそれも「からかい」の一部であるとして逃げられるということだ)。
 「からかい」にとって重要なのは、だから、答えを宙吊りにするという、その性格の方である。「Aか、それともBか?」という二重性の決定権を彼女が手放そうとしないのは、それを決定不可能性の中に宙吊りにしておくためなのだ。(もし、彼女が決定権を手放してしまえば、他の誰かが勝手に決めてしまうことだろう。高木さんは西片が好き、と)。
 「からかい」が終わり、相合傘の落書きが魚の骨に変わってオチがついた時にもなお、その決定不可能性は残る。「あれは本当に魚の骨だったのだろうか?もしかしたら、本当は…」という形で。AもしくはBでしかないものを、AでもありBでもありえるものとして、宙吊りのままにとどめておくこと。その決定不可能性を手放さないこと。それこそが、高木さんの「からかい」の、モラトリアム的な本質であると言える。それはけれど、世界の不可逆性に対する、彼女の孤独な戦いでもある。どんな人間も、永遠に「からかい」の中に生きることはできない。

 「ゲッサン」の2022年3月号に掲載されていた、「影絵」というエピソードがある。(おそらく単行本最新刊にも収録されているはずなので読んでほしい)。この話で描かれているのは、大人になることについての二人の態度の違いである。西片は早く大人になりたいと思っている。彼は鍛錬を怠らず、自分の成長について強い希望を持っている。なぜなら、彼の前には高木さんがいるからである。西片の「大人になりたい」という願望は「高木さんに負けたくない」というモチベーションによって支えられている。高木さんが彼の前を歩く限り、西片は大人になりたいと願い続ける。
 一方で、高木さんは大人になりたくない。今のままの時間を過ごしていたい。高木さんが子供のままでいたいと願うのは、彼女が西片の前を歩いているからであり、彼女自身がすでに半歩ほど大人になってしまっているからである。すでに大人だからこそ、高木さんは大人になるのが怖いのだ。
 ここには一つのジレンマがある。高木さんが前を歩く限り、西片は大人になろうともがき続ける。西片に抜かされないようにするために、高木さんもまた前を歩き続けるしかない。しかし、高木さん自身はもうこれ以上歩きたくはないのである。だからといって、西片の後ろを歩くことも彼女にはできない。それはまさしく、彼女が望んでいる今の関係(高木さんが少しだけ前を歩き、西片がそのすぐ後ろを歩くこと)を手放すことを意味している。だから、彼女は「からかい」によって時間を止める。二人の関係を宙吊りにし、流れていく時間から、変わっていく世界からそれを守ろうとする。何も変わらないように。いつまでも、今のままでいられるように。

 けれど、映画の終盤において、「からかい」は死ぬ。ハナという名のモラトリアムを失った高木さんが流す涙には、一欠片の「からかい」も残っていない。彼女はもうその涙を宙吊りにできない。高木さんは、あるがままの世界の中で、あるがままの自分を生きることを余儀なくされる。「からかい上手の高木さん」は、ここにおいて死んだのだ。

●「大人」になること

 ここで視点を変えて、西片について見てみよう。
 彼は本作の主人公であり、高木さんにからかい続けられる日々を送っている。もちろん、高木さんのことを意識しており、特に3期に入ってからは、積極的にアプローチ…とまではいかないが、少なくともからかわれるだけの存在ではなくなっている。

 赤城監督がインタビューでも語っている通り、「からかい上手の高木さん」はシリーズを通して「西片の成長」を描いた作品でもある。しかし、西片にとっての「成長」とは何なのだろうか?女(=高木さん)を獲得して一人前の男になることだろうか?
 監督自身は、西片の成長について「高木さんを愛するようになる西片くんを描く」と語っている。つまり、西片の「成長」=「高木さんを愛するようになること」だというわけだ。なあんだ、やっぱり女の獲得による一人前の男じゃないか…と思いがちだが、それはおそらく早とちりだ。
 冒頭での問いを反転してみよう。西片はなぜ、高木さんに告白しない=できないのだろうか。高木さんの本心がわからないから?フラれてしまう可能性が怖いから?そうかもしれない。しかし、それだけではない。
 西片が高木さんを「愛する」ことがなかなかできない理由。それは、彼にとって恋愛というものが、「子供っぽい」ものであり、「恥ずかしい」ものだからである。
 
 西片が持つこの価値観を理解するにあたり、単行本17巻に収録されているエピソード「おすそわけ」がヒントになる。これは西片と高木さんではなく、北条と浜口が出てくるイレギュラーな回なのだが、ここで北条が漏らす本音が非常に興味深いものである。
 北条は学校で一番大人っぽく、美人であり、常に大人になろうと背伸びを続けている、そんな女の子だ。彼女は大人っぽく見られることを好み、子供っぽく見られることを嫌う。その意味で、実は西片によく似た人物なのである。
 「おすそわけ」は、そんな北条が子供っぽい私服で外を歩いている時に、たまたま浜口に出くわしてしまうという話である。二人は幼馴染であり、浜口は明確に北条に好意を抱いている。そして北条の側もそのことをわかっており、まんざらでもない様子を見せる。そんな二人なので、夜道でバッタリと出会って何やかやと良い感じになり、ドタバタなラブコメっぽい展開を見せることになるのだが、ここで北条は頬を染めながら、次のような本音をこっそり漏らす。「こいつといると、あたしまで子供っぽくなっちゃう」と。
 何よりも大人っぽさを追い求め、自分の子供っぽさを絶対に他人に見せたくない、と公言する彼女にとって、浜口との恋愛は「子どもっぽい自分」を認めることなのだ。だからこそ、彼女は浜口への好意をうっすらと自覚しつつも、素直になることが決してできない。なぜならそれは、彼女が嫌いな「子供っぽい」ことだからなのである。
 
 大人はつい、恋愛をすることは「大人になる」こととイコールであると考えがちだ。しかし、子供たちの多くにとってはそうではない。(特に男の子にとってはそうだ)。彼らは、恋愛とは「子供っぽい」ものであると感じている。大人とはもっとクールでハードボイルドなものなのだ。西片もその例外ではない。彼は高木さんへの好意を自覚し、高木さんからの好意をうっすらと察しながらも、それでも最後の一歩をなかなか踏み出せない。それは、誰かを真剣に愛することそのものを、彼が心のどこかで「子供っぽくて恥ずかしい」ことだと感じてしまっているからである。
 西片の成長とは、つまり、その「恥ずかしさ」を乗り越えることである。誰かを真剣に愛することの恥ずかしさ、その「子供っぽさ」に真正面から向き合い、それを受け容れることである。
 それこそが、「大人になる」ことの意味なのだ。


●恋の終わり、愛のはじまり


 高木さんは恋をしている。西片という少年に好意を抱き、その手に触れたいと焦がれ、キスすること(されること)を夢見ている。それはもちろん、彼女の言動の端々から見て取ることができる事実だ。
 けれど同時に、彼女は恋を恐れてもいる。恋とは一連のステップである。気持ちを伝え、手を繋ぎ、キスをして……。そんなふうに、恋は前進する。前進することが恋である。しかし、進んだ先には一体何があるのだろうか? 大抵のカップルは、最終的には破局する。中学生の恋愛なら尚更だ(ざまあみろ)。高木さんは聡い。それゆえに、恋の先にあるものも見えてしまう。その負の可能性を感じ取ってしまう。
 二人の関係が「からかい」であるうちはいい。そうであれば、彼女は二人の関係性をコントロールできる自信がある。何しろ、高木さんは「からかい上手」なのだから。だが、もしも本当に恋人同士になってしまったら?自分はそれでも、二人の関係をコントロールしきることができるだろうか?恋愛とは、ある種の不確実性に身を任せることである。それは、自分ではどうにもならないことに対する賭けなのだ。だから、高木さんは恋すると同時に、それを心の内で恐れてもいる。自分の気持ちを、自分たちの関係を宙吊りできなくなることを恐れている。
 「からかい」は永遠には続かない。映画の終盤で西片の後ろを歩く高木さんは、その限界を迎えている。そんな高木さんの手を取って、西片は言う。「高木さんをずっと幸せにする」と。
 パンフレットのインタビューにも書かれている通り、このシーンで流れる音楽はアニメ3期の1話、高木さんが夢の中で西片に何かを言われる──けれどその言葉を聞き取れずに目が覚めてしまうシーンと同じものが使われている。つまり、この西片の言葉こそ、彼女が心の底でずっと望んでいたものなのだ。
 それは恋の告白ではない。「高木さんのことが好き」という告白ではない。そんなことは、二人ともとっくに知っている。高木さんが恐れているのは「西片が自分のことを好きか」どうかではなく、そのことを認めてしまったあとで、自分たちの関係が変わってしまうのではないか?ということである。だから、実のところ恋の告白は二人に何ももたらさない。それでは、彼女の不安は決して払拭されないのである。
 西片はいつの間にか、高木さんの前を歩いている。あれほど追いつきたい、追い越したいと願った背中は、気づいた時にはもう、彼の前にはない。西片は突然、自分が大人になってしまったことに気づく。高木さんの前を歩くことで、西片は彼女が見ていた景色を知る。彼女の気持ちを悟る。そうしてついに、彼は人を愛することの恥ずかしさを乗り越えることができる。だから言うのだ。「高木さんをずっと幸せにする」と。それは恋ではなく、愛の言葉である。
 恋は前に進むが、愛はどこにも行かない。むしろ、否応なく変わっていく世界の中で、変わらないこと、どこにも行かないことを宣言すること。その約束こそが、愛である。「からかい」は死んだ。けれど愛は残っている。
 「からかい上手の高木さん」は恋の物語だった。けれど、映画においてはもう違う。冒頭に挿入されるグリコのエピソードが改変されているのも、西片のバイブルであった『100%片想い』が全く登場しないのも、そのことを示唆している。これは恋ではなく、愛の物語なのだ。「ずっと幸せにする」という、愛の言葉だけが、世界の「どうしようもなさ」に抗うことができる。

 言葉の意味を宙吊りにするものが、「からかい」の他にもう一つある。親しさ、がそれである。親しい相手との会話は、しばしば冗談の形を取る。交わされる言葉の意味内容を宙吊りにし、親しさそのものを交換する。それは、会話の外側で成立するコミュニケーションである。高木さんの「からかい」は、作品を通じて、次第に二人の「親しさ」を意味するものに変容していく。「からかい」は親密さの上にしか成立しないものだからだ。高木さんが西片をからかえばからかうほど、言葉の外で送られる親しさのメッセージは、より強く、確実なものになっていく。
 「からかい」が死んでも、親しさは残る。なぜなら、親しさとは本質的に過去と結びついたものだからだ。それは二人が積み重ねてきた時間、思い出そのものから生まれている。どれだけ未来が不確かで、不安に満ちたものだとしても、過去は消えない。思い出はからかいようがない。「からかい」によって二人の関係を宙吊りにし、永遠のものにしたいという高木さんの願いは叶わないが、まさしくその願いが破れた瞬間に、親しさが彼女の手を取って現れる。それは間違いなく、彼女の「からかい」が育んだ、愛である。

 夏祭りの夜、西片は高木さんの前を歩いている。自然と彼女の手を取り、階段を登る。高木さんは西片に追いつき、二人は並んで花火を見る。高木さんが躊躇いながら言う。「わたしも西片のことを、ずっと幸せにするよ」と。
 そこにはもう、「からかい」はない。西片はそのことを知っている。なぜなら彼自身がすでに、高木さんのことを真剣に愛しているからだ。誰かを愛する自分を受け容れたからだ。相手に向ける愛の確かさが、向けられる言葉の確かさを担保する。彼はただ、「うん」とだけ頷く。その確かな手触りの中で、二人の夏が終わっていく。

● ワンダフルライフ

 是枝監督の初期作に、「ワンダフルライフ」という映画がある。死んだ後、天国に一つだけ生前の思い出を持っていけると言われる世界で、その思い出を映画として撮影する人々を描いた作品である。
 「劇場版からかい上手の高木さん」を見た後で、ぼくが思い出したのはこの作品だった。「これ、『ワンダフルライフ』じゃん」と。 

 エンドロールの後に、短いエピローグが映画を締めくくる。そこでは大人になった高木さんと西片が、娘とともに再び虫送りのお祭りを訪れている。そして二人は、娘に導かれるままに森の奥へと進んでいき、あの夏に見ることができなかった、蛍の群れと出会うのである。
 このエピローグの存在によって、それまで観客が見ていた物語──ひいては「からかい上手の高木さん」という作品そのものが、大人になった二人の「思い出」であったことが明かされる。それはなんでもないような日々の、ささやかな思い出なのだが、そのささやかさこそが、思い出の大切さを引き立てている。
 かつて「からかい上手」だった高木さんにとって、それはまた叶わなかったものたちの記憶でもある。少しだけ背伸びして歩いた二人の日々も、ビー玉に閉じ込めたあの夏空も、二度と帰ってくることはない。それは決して手が届かない、けれどそれゆえに尊い思い出としてそこにある。二人はその思い出を共に弔いながら、蛍の光へと滲ませる。
 人生は過ぎていく。無邪気に遊び回ったあの日々はもう戻らない。それでも、その日々を永遠にしたいと願った彼女の愛は、今もそこに残っている。かつて永遠を夢見ながらも敗れて死んだ「からかい」たちは、二人の弔いによって、ついに永遠のものとなる。
 大人になった高木さんは、娘とともに西片を「からかう」。そのからかいは、けれど最早、何かを宙吊りにすることはない。移り変わる世界の中で、変わることのない愛だけが、どこにも行かずにそこにある。



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