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「劇場版からかい上手の高木さん」について(続) ──フェリー、花火、ペットショップ

前回の記事はこちら。

 映画のおおまかな内容については上記の記事で書き切った(何しろ1万字くらいある)のだが、その後再び劇場に足を運んだり、友人たちと話したりしたことで、色々と細かい部分についても書きたくなってしまった。
 というわけで、今回は小ネタ集です。

・教室の窓

 映画の冒頭、高木さんが西片を相合傘でからかうシーンでは、教室の窓が二人の姿を反射して、鏡の機能を果たしている。これは「からかい」中の2人がいる空間の閉鎖性を表しているのだが、雲が切れ、青空が広がるのと同時に、窓ガラスの存在感はパッと消え、外の風景が画面に飛び込んでくる。解放感に満ちたこのシーンは、しかし2人の箱庭的な世界が、まさに終わろうとしていること──そして、本作がそういう映画であることを示唆しているのだ。

・西片のゴミ箱

 映画の序盤、グリコ勝負が終わったあとの夜に、部屋で腕立て伏せをする西片の姿が映るが、このシーンでは西片の部屋のゴミ箱が映っており、その中に丸めたティッシュのようなものがいくつか見える。だから何、ということではないが……。

・プール(水深2メートル)

 西片と高木さんが息止め勝負をする学校のプールだが、よく見ると異様に深い。おそらく水深2メートル近くある。あまりにも深すぎて、予告編で見た時は何か精神世界的な映像なのかと思った。
 また、水中で膝を抱えている高木さんの姿勢が、やたらとミュウツーっぽくて初見時はちょっと笑ってしまった。
 それはそれとして、わざわざ一度結えた髪をほどけさせる描写に、スタッフの強いこだわりを感じる。かたく縛られていたものがほどけていく…という演出は他にも見ることが出来、たとえば高木さんの手なども同様である。(高木さんはしばしば、手を背中で組んで歩いている。まるで、西片に触れようとする自分の手を律しているかのように。バス停の場面ではその手がほどけて伸びるのだが、バスが来たことによって再びナップサックをかたく抱き抱えることになる)。

・大人たち

 基本的に「高木さん」にはシリーズを通してほとんど大人が出てこない。西片や高木さんの両親でさえ、一度も出てきたことはない。
 この点、映画では多くの大人たち(ペットショップの店長、虫送り会場にいる保護者や自治会長など)が、彼らを見守る存在として描かれている。本作のご当地映画的な側面を支えるとともに、西片と高木さんの2人が、次第に社会のなかに包摂されていくことを意味してもいる。

・異界としてのペットショップ

 ハナを保護した2人が向かった島のペットショップは、この映画の雰囲気にそぐわない明らかに異質な場所として設計されている。(特に人語を話すオウム)。ほとんど魔女の店にしか見えないこのペットショップは、要するに児童文学で言うところの"異界"の役割を果たしている。
 このペットショップは現実から切り離されたファンタジー的な空間なのであり、そこでは独自の時間が流れている。この店にいる限り、2人は現実の時間の流れを忘れ、束の間の永遠を享受できるのだが、やがてそれにも終わりが来る。ペットショップは異界であることをやめ、店長も魔法使いからただの大人に戻る。

・三人娘とフェリー

 映画のなかでもっとも印象的な場面のひとつ。夏が終わってほしくない、いつまでもいっしょにいたい、というミナの言葉を遮るようにフェリーの汽笛が鳴り響き、三人に向かって手をふる観光客(たぶん)たちの「おーい」という声がそれに続く。
 シリーズを通して、島を訪れる観光客の姿が描かれるのはこのシーンのみであり、否が応でも島の「外」を意識させられる演出となっている。いつになく真面目なミナの言葉に、2人が直接答えることなく、フェリーに手を振り返すことでそれに代える、というのも良い。「高木さん」シリーズは「語らない」ことにむしろ意味を込める作品だが、このシーンはまさにその象徴だと言えるだろう。

・ハナの命名とカラーペン

 大人になりたい西片と、大人になりたくない高木さん、という2人の違いをもっとも象徴的に描いているシーンのひとつ。猫の名前を考える際、西片は「大人になったら鳴き声が変わってしまうから」という理由で「ミイ」という名前を却下するが、高木さんは「今のこの子を覚えていたいから」という気持ちから「ミイ」と呼ぶ。(しかし、猫はそのどちらにも答えない)。高木さんも西片も、「自分から猫がどのように見えているか」という自分の視点のみに基づいて名前をつけており、猫が答えないのはそのためである。猫が花に興味を示し、猫と西片と高木さんという三者の視線が重なりあうとき、猫の名前は決定する。(視線の重なり合い、は本作の重要な要素のひとつだ)
 2人の違いはハナの里親探しの場面でも示唆されている。「里親探しのポスターを描こう!」と言ってスケッチブックとカラーペンを取り出す西片を見て、高木さんは思わず笑い出す。自分もまったく同じことを考えていた、と言って彼女もスケッチブックとペンを取り出すのだが、よく見るとここで2人が持っているペンは全て色が違っており、一本もかぶっていないことがわかる。一見すると「まったく同じ」であるように思える2人が、しかし微妙に別のものを見ていることがわかるシーンである。

・西片と子供

 虫送りの夜に西片が幼い女の子を勇気づけるシーンと、ハナが知らない子供たちに拾われてしまうシーンは、映画のなかでちょうど対になっている。前者において西片は子供と同じ目線になるよう膝を折り、優しく語りかけるのだが、後者の西片は階段の上から彼らを見下ろし、猫を取り返そうと決意する。
 一歩を踏み出す西片を引き止めるのは高木さんで、これは彼女の生真面目さを表すと同時に、彼女のなかに、虫送りの夜の西片の姿が強く焼き付いていることの表れでもある。高木さんが好きになったのは、虫送りの夜の西片なのであり、子供相手でも猫相手でも、相手の目線に立って優しく接することができる男の子なのだ。

・魔法の破れ目

 ハナを失った2人が夕暮れの海辺を歩く一連のシークエンスは、この映画のなかでも際立った美しさを湛えている。
 西片が振り向いて高木さんの手を取る瞬間、2人の顔立ちはそれまでのデザインから逸脱し、明らかに大人びたものへと変わっている。これはもちろん、2人が大人への一歩を踏み出したことを表しているのだろうが、むしろ逆に読むことも可能かもしれない。
 つまり、2人は本当は、すでにこれくらい大人びてしまっているのであり、映画はずっとそれを隠してきたのだと。(何しろ、高木さんも西片も、中三にしては容姿が幼すぎる)。このことは、後述する本作の視点の問題とも関わっている。(信頼できない語り手、と表現しても良い)。
 2人は現実には、すでに大人になってしまっていたのであり、それをあたかもまだ子供であるかのように描いていたのが、この映画の魔法であるとは考えられないだろうか。夕暮れの海で垣間見える大人びた2人の姿は、その魔法の破れ目なのである。

・映画を語るのは誰か?

 「からかい上手の高木さん」の主人公は誰か?といえば、それは西片である。これはその通りなのだが、では本作の語り手は誰なのか?というと、むしろ高木さんではないか、というのがぼくの意見だ。
 これは映画が窓の外を見つめる西片の姿から始まるからで、このファーストカットについて、監督は「西片ファースト」だとパンフレットのなかで語っている。高木さんが最初に見るのはいつも西片であり、だから映画も(アニメシリーズも)西片を映すところから始めるのだ、と。
 ということは、映画を貫いているのは、基本的には西片ではなく(大人になった)高木さんの視点であると言えるだろう。作中ではしばしば西片の心の声が挿入されるけれども、これもむしろ、高木さんが西片の様子から読み取った(バレバレの)心の声なのだと思われる。
 その唯一の例外が先述した夕暮れのパートで、ここでは海辺を歩く2人の感情を極力見せない工夫がなされている。高木さんの感情については、歩き方とその後の展開でわかるようになっているのだが、西片の感情はここでは全くと言っていいほど読めない。これは「高木さん」という作品の根幹を揺るがす演出である。「西片の感情はダダ漏れだが、高木さんの気持ちは(西片から見て)はっきりとはわからない」というのが、「からかい上手の高木さん」を成立させている絶対的な条件なのだから。
 作品そのものの前提条件が、この夕暮れのシーンで反転する。それは、やはり映画の語り手が高木さんだからなのだろうし、これまで常に西片の感情を手に取るように読んできた、彼女の魔法(=からかい)がここにきて尽きたことを意味してもいる。だからこそ、西片の気持ちを真正面からぶつけられるあのシーンが、彼女の胸を打つのだけれど。

「愛とは互いに見つめ合うことでなく、ともに同じ方向を見つめることである」とサン=テグジュペリは(あるいはジョン・グリーンも)書いている。
 映画のラストシーンで映るのは、一発の巨大な花火だ。これは高木さんが見ている景色であると同時に、西片が見ている景色でもある。2人が見ている景色は、ここにきて完全に一致する。並んで歩きながらも、少しずつ違う景色を見ていた2人の視線が完全に重なり合う瞬間を切り取って、映画は終わるのだ。
 

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