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MATSUKIN REVIEWS(1〜3月編)

 恐ろしいことに2023年も1/4が終わろうとしている。
 おそらくこれは一年が12か月しかないことによるものだろうから、岸田総理には思い切って異次元の暦改革を行っていただき、一年を16か月とかにしてもらいたい。
 今年は色々あってほとんど家から出ていないし、映画館にもあまり行けていない。おかげで見た映画の感想を全部書くことができるので、皮肉といえば皮肉だが……。

「アイカツ! 10th STORY 未来へのSTARWAY」

 めちゃくちゃ良かった。個人的にアイカツの映画は「大スター宮いちごまつり」があまりハマらなくて、今回の映画も卒業ライブの準備みんなでやるんでしょ、くらいに舐めた態度でいたのだが、完全に敗北した。
 ストーリーをぎりぎりまで削ぎ落し、断片的なシーンをモンタージュした構成が良い。くどいくらいに「集合」と「解散」を反復するのは、まさにそれこそが、本作が描こうとしているテーマだからだろう。寮での打ち上げ、食堂での朝食、星宮&紫吹家での鍋パーティ……。いちごたちは何度も集まり、そして解散する。映画はひたすらにその繰り返しで進んでいく。卒業後の生活は今の学園生活と何が違うのか?と問われたあおいは、「今みたいに寮でいっしょに暮らすことはできなくなる」と答える。彼女たちにとって、学園生活の本質とは同じ場所に「集っている」ことなのだ。そして卒業とはもちろん、その解散を意味している。
 物語の最後では、彼女たちの卒業ライブが回想として挿入される。ライブもまた、みなが一同に「集うこと」であるという力強いメッセージが、同じように映画館に集まってきた観客たちに共鳴する。集った人々は時が来れば離れていくが、そうすることでまた新たに集うことができる。それぞれの道を歩んだソレイユの三人が、再び「集う」場面を切り取って映画は終わるのだが、それがとても良かった。
 なお、ぼくは紫吹蘭のことが大好きなので、「映画の撮影かと思ったら、単にイカつい自家用車を高速でぶっ飛ばしていただけだった紫吹蘭」「壊してもいい……と呟きながら誰もいない部屋で変なポーズをしている紫吹蘭」「これもう明るい闇鍋だな、と冗談を言うものの特に誰にも拾ってもらえずスルーされる紫吹蘭」などが見られたのもとても良かった。あと美月さんはビッグベンの周りをジョギングしてるだけで面白いのでずるいと思う。

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」

 前評判が非常に良かったので期待して見に行ったのだが、まったく好きになれなかった。残念。
 ちょっと前にアメリカかどこかの卒業スピーチがTwitterで流れてきて(詳細は忘れてしまったが)、確かに良いスピーチではあったもののどうしてもエリート主義が鼻につくところが好きになれなかったのだが、それに似たものを感じた。要するにリベラルアーツによって自意識の牢獄から抜け出し、日常のなかで他者のことを考え、相手の立場に思いを巡らせられるようになる……というスピーチなのだけど、一見すると理想的な人格者のようでいて(実際そうなんだが)、ここには「相手の立場を想像し考えを巡らせられる我々」と「自分のことしか考えられない人たち」の差が(ややエリート主義的なやり方で)挿入されているし、相手のことをあれこれ考える……というのもそれ結局自分の頭の中の出来事ですよね?直接相手の話を聞かないとダメなのでは?とも思ってしまう。本作の終盤でエブリンが辿り着く「Be kind」にもそれと同じものを感じてしまい、好きになれなかった。(あなたは自分でも気づいていないけど、本当はこういう人なんです……と勝手に同定する鼻持ちならなさ、とでも言おうか)。
 一番嫌だったのは、子供を親のセラピーの道具として扱っているように思えたところだ。物語の冒頭で娘の側が親に抱いていたはずの怒りや反発はいつの間にかなかったことにされ、代わりに「若者らしい」虚無主義が挿入されてしまっている。うーん。この意味で、ジョブ・トゥパキは最高に「物分かりのいい娘」なのだ。実際、最初に登場したエブリンの娘ジョイはいつの間にか消えてしまい、最後まで出てこない。ジョイをトゥパキに入れ替えることで映画が追い出すのは、娘の側の怒りと反発である。なぜなら、あらゆる可能世界を経験したトゥパキはすっかりニヒリストになって、親のことなどとっくに許しているからだ。(アルファバースのジョイなんて母親のせいで精神崩壊してるのに……)
 もちろん、本作をトゥパキの側から見て、あらゆる可能世界を横断しながら自分を受け容れてくれる母親を探す話……と読むことも可能だろうけど、それも随分親側に都合の良い話だなあ、と感じる。そもそもこれ、ラストに出てきたバースは元々のエブリンのバースではない(戦いが起こらなかった世界の方になってる)のだが、いやいやあれだけ暴れたんだから、その帰結くらいちゃんと引き受けてくれよ、結局隣の世界に押しかけてるのにやっぱり我が家が一番みたいな雰囲気を出されても……と思わなくもない。
 ということで個人的にはまったく合わなかったけれど、よく出来た作品であることは間違いない。

「なのに、千輝くんが甘すぎる」

 傑作!!!
 少女漫画原作の映画は久しぶりに見たけれど素晴らしかった。演出、脚本ともに随所で匠の技を感じる。何より主演の高橋恭平くんが良すぎる。ほとんど表情がなくひたすら顔のアップが続くので、並の顔面では間がもたないはずなのだが、ひとえに彼のルックスによって映画が成立しており、すごい。
 本作で特に良かったのは、片想いをあくまで片想いとして、相互理解とは無縁なものとして描いているところだ。たとえば千輝くんには色々と家庭の事情があり、それによって人を好きになることを避けている、みたいな設定があるのだが、これは観客に向けて開示されるだけで、主人公は最後までまったく知らないままだ。普通、こういう作品だと片想いごっこをするうちに相手の別の一面を知っていって相互理解が深まり……的な話になりがちだが、今作はそうなっていないのが良い。主人公は千輝くんのことなど実際には何一つわかっておらず、知りたいとも思っていない。そして、そういう自己満足で非生産的で非倫理的(男子のことを自分が恋するための道具としてしか見ていないという点において)な"片想い"を、映画はイキイキと魅力たっぷりに描いてみせるのだ。
 なお、本作には「○○氏〜〜」と言いながらピコピコとゲームをプレイするネット中毒で性格の悪いキモオタク、という電車男の頃からまったく変化していない化石のようなオタクキャラが登場するので、「○○氏〜」と喋るオタクを見たい人にもオススメである。

「郊外の鳥たち」

 超絶大傑作!!!!!!
 素晴らしい映画だった。2023年ベスト確定。
 地盤沈下が進む故郷の町に測量士として帰ってきた30歳の青年と、彼と同じ名前を持つ少年の物語が交互に語られるスタンド・バイ・ミー×カフカといった雰囲気の作品だが、ともかく抜群に面白い。
 一見すると青年の回想に見える子供たちのパートだが、実際にはそうとも言い切れないように作られており、同時代の出来事のようにも、あるいは青年パートの未来の出来事のようにも見えるのが面白いところ。同じ名前をもつ青年と少年の関係性も不明である。一つ言えるのは、両者はコインの表と裏の関係にあり、隣り合っていながら決して交わることがない、ということだ。
 一方で、子供たちのパートはより物語的であり、世界には意味が満ちている。少年たちは登校拒否になった友達を心配し、彼の家を知っているという女の子を先頭に見舞いへと向かうが、どこまで歩いても家は見えてこない。彼らはどこに向かっているのか。女の子は本当に友達の家を知っているのか? やがて友達が一人、また一人と消えていき、残された三人はどんどん暗くなっていく夕暮れの中、何もない川べりに座り込み、動けなくなってしまう……。このパートでは、少年たちの物語が少しずつ破れ、ほつれていき、最後には全ての意味を見失って座り込むことしかできなくなる。
 他方、大人たちのパートでは、物語は初めから存在しない。意味を剥奪された町の中を、主人公たちは異邦人として彷徨いながら覗き込み、測量し、地盤沈下の原因を探ろうとする。30歳の青年(子供じみた大人)である主人公はそこに辛うじて物語のようなものを読み込もうとするが、それは目に見えない地下水の漏出という形でしか得ることができない。
 二つのパートはそれぞれ正反対の場所から出発して、同じ何かを目指しているように思える。その中心では物語の存在と不在、意味と無意味が完全な一致をみているはずなのだが、両者ともにそこに到達することはできず、互いに隣り合いながらも決して重なることはない。けれど、それでも二つの世界は共に在る。コインの裏と表のように。
 どちらのパートがより好きかは好みが分かれるところだろうが、個人的には子供パートのラストが素晴らしいと感じた。暗くなっていく空、変わらず流れ続ける川の音、影になって見えない友達の表情。互いに互いの胸の内を完全に察しながらも、それを口にした瞬間に全てが終わってしまうことを恐れて何も言えず、けれどもうこれ以上はどこにも行けないという、絶望的な行き詰まりの感触……。間違いなく、ここ数年観た作品の中でも1、2を争う美しいシーンだったと思う。実写版「からかい上手の高木さん」もこういう作品になると個人的には嬉しいのだが……。

「バッドガイズ」

 「長靴をはいた猫と9つの命」の予習として観たが、とても面白かった。いつも思うがシュッとしたシルエットの獣がぴったりした服を着ているのはえっちすぎる。「ムショに入ることくらい、別に大したことじゃないサ」と言わんばかりの爽やかなラストが良かった。(なお、長靴を履いた猫はまだ観られていない)

Steam deckと「ホグワーツレガシー」


買っちゃった。

 発売を楽しみにしていたホグワーツレガシーだが、(このために買ったと言っても過言ではない)PS5が諸事情により使えなくなってしまったため、友人に勧められてsteam deckを購入することにした。
 我が家にはPCがSurfacePro4しか存在せず、基本的には原稿執筆の専用機であるため、PCゲーをプレイすることは諦めていたのだが、なんとSteam deckはPCゲーをベッドに寝転がりながらプレイできる夢のポータブルゲーミングPCなのである。正直、かなり割高(8万くらいする)だし、Switchより2回りくらい大きくて重いので、普通にPCでゲームができる人はそっちでやった方が良い気もするが、私のように自室のベッドでしかゲームができない人間にとっては神ハードであると言える。何より、ゲームをするのにいちいちPCを立ち上げるとかダルすぎてやってられん、という人におすすめである。
 ホグワーツレガシーの方はまだ6割くらいしか進んでいないがかなり楽しい。正直、オープンワールドと学園ものの相性はかなり悪いと思っていたのだが、ホグワーツの場合は原作も6割くらいが規則破って出歩く話なので、授業に全然出ずに冒険していてもそこまで違和感がない。また、5年生から転入してきた謎の転校生、という主人公の立ち位置もうまくはまっていると思う。(授業のシーンが少なくても個別の補習や課外活動でレッスンを受けている、という流れにできるし、学外で冒険ばかりして完全に浮いていてもそこまで不自然ではない)。普通の新入生設定にしたポケモンSVが、かなり不自然なストーリー展開だったことを考えると、よくできた設定だと言える。
 ただ一点気になるのは、異様に人が死にまくることで、主要な登場人物はもちろん、サブクエストで出てくるようなモブキャラもたくさん死ぬ。よくあるのが、ホグズミードの村人とかに「旦那の姿が昨日から見えないの。心配だから探してきて」と頼まれるクエストが発生し、探しに行くと転がった死体を見つけるパターン。もう何度「お気の毒ですが○○さんは……」「ああ、そんな!(号泣)」という会話を繰り返したかわからない。いくら時代設定が100年前だとはいえ、流石に治安が悪すぎる。君もアバダケダブラを習得して家族を守ろう!

【追記】
最後までプレイしたところ、クソゲーという感想に変わりました。お詫びして訂正します。

「定額制夫のこづかい万歳!」

 前々からwebでつまみ食い的に読んではいたものの、このたび無事に単行本を全巻揃えてしまった。なかなかパンチの効いた話も多く、読んでいて飽きない。
 一番衝撃的だったのは12話に出てくる「こづかい0円」男である。この漫画の登場人物は、基本的に「一人が好き」という価値観を共有している。もちろん家族のことは大切だし、一番に思ってもいるが、やっぱり一人の時間、自分だけの自由も少しは欲しいよね、という気持ちが前提としてあり、つまりはそれが「こづかい」なのだ。そして、読み手である我々は、その感情を「あるある」として共有しながら楽しむようになっている。
 ところが、この「こづかい0円」男は、その前提を共有していない。そもそも「一人が好き」ではないのである。一人で遊んだってつまらないし、みんなと一緒が一番楽しいよ。そういう考え方だから、自分だけのお金である「こづかい」が欲しい、という発想が出てこない。人生の根本的な価値観が違うのだ。別に悪いことではないし、むしろ人としては素晴らしく、はっきり言ってこの漫画に出てくる人間の中でもトップクラスにいい人だと思う。しかし、困るのだ。こんな人が出てきたら、そもそもこの漫画の前提が崩れてしまう。「やっぱり一人が好き」という気持ちを共有して「みんなそうだよね」「僕だけじゃないよね」と安心する漫画なのに、「え?一人でいたってつまらなくないですか?」という人が出てきては困る。外部を見せるな外部を!

 
 ちなみに、この漫画はいわゆる「新しい貧困」の象徴としてインターネットで語られがちだったりするのだが、読んでみた感想としては、うーん、どちらとも言えない……という感じだった。
 先述した通り、本作は基本的に「家族のために生きている人(大抵は男性労働者)」たちが、それでもなんとか「自分だけの自由な時間/お金」を謳歌すべく、限られた制約の中であくせく頑張るという前向きなお話である。
 しかし、決してそれだけではない。中にはかなりキツそうな話もある。個人的には、「毎日朝6時から夜10時までほとんど飲まず食わずで働き、最寄駅に着く頃には飲食店も全部閉まっているので、唯一開いているセブンイレブンでお菓子を買って食べることだけが楽しみ(しかもそれを毎日続けていると途中でお小遣いが尽きる)」という予備校講師の話は結構心にキてしまった。明らかに生活がヤバそうだったり、過剰労働としか思えないような話もある。
 また、出てくる人々の暮らし向きにもかなり差がありそうなのだが、この作品が上手いのは、あくまで「こづかい」にフォーカスすることで、表向きはそうした格差をないことにし、「一億総中(の下)流」的な雰囲気を作り出していることにある。
 第一に、こづかいの額自体は人によってそこまで変わらない、ということがある。大体2万〜3万円くらいで、多くても5万がせいぜい。10万だの20万だのもらっている人は当然いない。そのため、収入面では大した違いがなく、自然とその使い道の方に注目が行くことになる。
 そして第二に、これが最も重要なのだが、こづかいの多寡=世帯収入の多寡ではない。もちろん、実際にはかなりの相関関係があるだろうが、作中人物たちはそのようには考えない。収入が多い=こづかいが多いではないし、こづかいが少ない=収入が少ないでもない。こづかいの額を決定する変数は家族である、という暗黙の前提が本作にはある。こづかいが多いのは「妻が優しいから」「家族に理解があるから」であり、逆にこづかいが少ないのは「子供が増えたから」だったり「家を買ったから」だったりする。
 こづかいが多いことは確かに羨ましくはあるが、とはいえそこまで大きな差ではないし、何より収入=稼ぐ能力と結びついているわけではないので、劣等感なくそれを受け入れることが可能である。反対に、こづかいが少ないことは恥ずかしいことではなく、むしろ家族のために尽くしているのであり、大変「えらい」ことなのだとされる。実際のところ、作中世帯の収入にはおそらく相当のバラつきがあるのだが、「家族」という変数を噛ませ、「こづかい」という出力のみを扱うことで、本作はそれを徹底して見えないものとしているのだ。
 おそらく、こうした操作は日本社会の日常の中で、多かれ少なかれ皆が行っていることでもある。その意味で本作は、家族主義が社会的格差をいかにして隠蔽するかという、その優れたサンプルだと言えるかもしれない。(本当か?)ともかく家族でワイワイ読める良い漫画なのは間違いないし、6巻も楽しみ 。早くジェネリック赤羽=南浦和回が単行本にならないかしら…。




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