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「財産になる4年間」



皆さんこんばんは。

皆さんは自分の大学生活を振り返ってみたことはありますか?僕自身、母校である日本体育大学を卒業して、早くも1年近くが経過しました。

自分にとって大学で過ごした4年間はとても貴重で、結果的に『財産』となる4年間でした。

そのせいか、4年間すべてを昨日の事のように鮮明に覚えています。そこで今回は自分の野球も含めた大学生活を振り返ると同時になぜ財産だといえるのか、というところにも触れつつ楽しく書いていこうと思います。


『始まり』
まず初めに、僕がなぜ日本体育大学に入学したのかというところを手短に話していきます。

それには当時の夢と、1人の先生が関わっています。僕の当時の夢は『体育教員』。日体大はその夢を叶える最高を環境でした。そして担任であり、監督でもあった楠本先生に面談で『日体大に進まないか』と話がありました。これが決め手となり、僕は日体大に進み、大学生活をスタートさせます。



『異世界』
僕は指定校推薦で日体大に入学し、一般生として硬式野球部に入部しました。そこで僕に待ち受けていたのは文字通り『異世界』でした。

人としての在り方、野球技術、考え方、体格、すべてにおいて次元が違う。視角からの情報だけでも十分に僕は呆気に取られてしまいました。場違いだと、いくら努力をしようと無駄だと言わんばかりの場所だったことが、今も脳裏に焼き付いています。


『驕りと焦り』
入部して3カ月程が経過し、少し心境に変化がありました。『俺、いけるかも』次第にそう思うようになりました。しかし現実は違う。日体大は3軍制を用いており、僕も3軍に所属していました。そんな3軍に、動きがありました。数人が2軍に昇格したのです。

僕の名前も上がっていたそうですが、結局昇格はなし。次第にそれは焦りに変わります。

なぜ焦りがあるのか。これには大きな理由が存在しました。もちろん自分が取り残されているというのもありますが、1番大きな理由は『カットライン制度』です。

これは300人の選手が所属する日体大ならではの制度です。選手には部から目標を設定されます。2年生の春までに2軍へ、3年生の春までに1軍へ昇格しなければならないというものです。これを達成できなかった場合は

その時点で選手を引退して、学生コーチや就活に専念するなどの道が用意されています。

この制度は選手の向上心を掻き立てると同時に、計り知れない『焦り』も生みます。

そんな学生には少し酷な昇格争いに僕は出遅れてしまい、焦っていたのです。



『果てしない鍛錬』
そんな焦りは次第に僕自身を変えていきます。膨大な時間を野球にあてるようになっていったのです。当時の僕はこんな考えをもって野球に打ち込むようになっていました。

僕のような凡人が才能溢れる選手達を追い越すには、相手が寝ているとき、ご飯を食べているとき、遊んでいるときに、僕は練習しなければならない。普通に全体練習をこなすだけでは一生かけても追いつかない。確かにそれでも成長はする、それを実感し充実感も生まれる。ただ周りもみんな成長する。そこを忘れてはいけない。だから、周りが成長しない時間に自分は鍛錬し成長する。それ以外に追いつく方法はない。だから寝る時間を削り、遊びもせず、オフの日も練習に明け暮れました。のちに、“これ”が大学生活を『財産』だといえる要因になりますが、ここでは説明を省きます。



『表舞台』
そんな生活を続け、カットライン制度も何とかクリアして、気づけば3年の秋が終わっていました。同級生の一般生は全員選手を引退し、僕だけが選手を続けている状況でした。

当時の僕は、1軍と2軍を行き来しており、リーグ戦のメンバーには入れていない状況でした。そんな中で、4年の春になり、初めてメンバー入りを果たします。

何か一旦すべてが報われたような気分になりました。一般生のみんなが祝福してくれました。人生で1番嬉しかった。しかし、そこからの壁が1番分厚いことも理解していました。

その時試合に出ているメンバーは、下級生の時から試合に出ている選手ばかり。僕が割って入る場所なんてありませんでした。目標をクリアすれば、また新しい壁が出てくる。ただこの時の僕は入学当初のビビってしまったときとは違っていました。そのとき僕は、こんな仲間とまだ野球ができる、切磋琢磨できる、何度延ばしても手が届かなかった人たちに食らいついていけることにワクワクしていました。結局その後、スタメンに名を連ねることになり、

リーグ優勝を果たしました。関東大会(市長杯)では横浜スタジアムでプレーをし、最後の打席もヒットを打つことができました。後悔などない、最高の大学野球生活でした。

『得たもの』

僕が大学野球で得たものは、仲間と鍛錬、その両方の偉大さです。

僕たち競技者はもちろん結果を求めます。もちろん僕も同じです。ですが、結果はただ後からついてくる出来事に過ぎません。こんなことを言ってしまうとポジショントークになってしまうのですが、結局は結果を出すために信念をもって生活し努力できたのであれば
それは紛れもなく『財産』です。これは僕の鍛錬が身を結ばなかったとしても、同じことを言っているはずです。僕が一般生として試合に出ていたことに、たくさんの人が面識の有無関係なく、直接あるいはSNSで賞賛をして下さりました。ありがたいことですが、それもあくまで結果に過ぎません。つまり、過程よりも結果にこだわって練習をしますが、最後に手元に残っているのは、過程であるということです。ここが本文の核心のような気がしています。


仲間は僕にとってかけがえのないものでした。大学野球が終わったときにそう感じるようになりました。自分の為だけに頑張っていたら、とっくに心が折れていただろうと思います。

野球を続けたくても、続けることができない、そんな仲間のために頑張っていられたのだろうと思います。また、支えてくれた家族や地元の友人にも同じようなことが言えるのではないかと思っています。日の目を浴びる時間のほうが、圧倒的に少なかった大学野球生活ですが、目標を達成できたことではなく、達成するために努力できたこと、誰かのために頑張ることができたことが僕の『財産』です。良いことも、悪いことも何もかもひっくるめた“あの”4年間を忘れることなく
これからの人生を精一杯生きていこうと思います。

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