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[2024/06/07] インドネシア本乱読精読耽読 第1回:『インドネシア政治とイスラーム主義 ひとつの現代史』茅根由佳・著 名古屋大学出版会 2023年10月15日初版 本体5,800円+税(轟英明)

~『よりどりインドネシア』第167号(2024年6月7日発行)所収~


はじめに

これまで『よりどりインドネシア』では、インドネシア映画について言いたい放題好き勝手に書いてきましたが、今回発行人の松井さんのご厚意でインドネシアに関する書籍についても書かせていただけることになりました。

文学方面については、専門家の太田りべかさんにお任せして、こちらの連載では主に日本語で出版された人文系の本やノンフィクション本を取り上げたいと思います。すぐに入手可能な新刊だけでなく、やや古い本であっても紹介したいものがあれば、随時言及していくつもりです。

タイトルにある通り、私の読書スタイルは手当たり次第に読む(乱読)のが基本ですが、時には細かいところまで丁寧に読む(精読)こともあれば、あるいは夢中になって読みふける(耽読)こともあります。はっきりしているのは、インドネシアを丸ごと全部知りたいという果てしなき欲望が私に読書を促しているという感覚でしょうか。

『よりどりインドネシア』購読者の方々が、この連載を読んだことがきっかけで私が紹介した本を手に取っていただければ、これに勝る喜びはありません。

さて、第1回の今回はちょっといきなり硬めの学術書ではありますが、『インドネシア政治とイスラーム主義 ひとつの現代史』を取り上げます。

イスラーム主義とは何か

スハルト政権崩壊以降のインドネシアでは様々な分野での民主化が進み、時に「権威主義体制から民主主義体制への転換に成功した優等生の国」とまで国際社会、特に欧米諸国で持ち上げられることもあるほどですが、同時に「社会のイスラーム化」も懸念されてきました。とりわけ、2017年のジャカルタ州知事選挙直前に、華人キリスト教徒のバスキ・チャハヤ・プルナマ現職知事(当時。通称アホック)の「失言」を宗教冒涜罪として多数のイスラーム団体が告発し、参加者50万人とも言われる抗議集会を「成功」させたこと、その勢いによって彼らの推すアニス・バスウェダンがアホックを決選投票において大差で破ったこと、さらに数ヵ月後にアホックが禁固2年の実刑に処されたこと、この一連の流れによって多くの内外有識者は、インドネシアで「アイデンティティの政治」が顕著になりつつあり、「反民主主義的なイスラーム主義が勢力を拡大している」との憂慮を表明したのでした。米国をはじめとして世界各国で観察される、政治社会の二極化や分断化がインドネシアにおいても進行しているのではないかとの主張も聞こえてきました。

こうした分断化をめぐる議論において、私自身、様々な指摘には頷けるところも多々ありながら、同時になにかしっくりこない感じもありました。宗教的多元主義(あるいは世俗主義)vs イスラーム主義という対立軸は非常にわかりやすいのですが、何か見落としていることがあるのではないか?そもそもインドネシア現代史を振り返れば、「指導される民主主義」と呼ばれたスカルノ旧秩序体制や「開発の父」スハルトが進めた開発主義下の新秩序体制下のある時期までは、イスラーム主義とは圧政や強権に対する批判のよりどころではなかったか?イスラーム主義イコール反民主主義という捉え方は一面的にすぎるのではないか?このような私の疑問に答えてくれる論考はなかなか見つかりませんでした。

ところで、インドネシアにおいてイスラーム主義とは元々何を意味するのでしょうか。本書では「イスラームの優位性を前提に、国家や社会のイスラーム化を目指す」主義主張と定義づけられています。が、イスラーム主義とは実はインドネシアの建国五原則パンチャシラに基づく国民国家の枠組みを否定するイデオロギーでもありました。その源流は日本軍政末期の1945年憲法草案作成時の論争にあります。

「ムスリムはシャリーア(イスラーム法)に従う義務がある」との文言を加筆した憲法前文は「ジャカルタ憲章」と呼ばれ、最終的に削除されたその文言を復活させることが、ある時期までイスラーム主義者の悲願とされたのはよく知られたことです。彼らのなかで、ある者は1950年代にダルル・イスラームの武力闘争に身を投じ、ある者は独裁を強めるスカルノ大統領を議会の内外で激しく批判し、また別の者は大学キャンパスからのイスラーム化を図ろうとしました。

しかし、21世紀のインドネシアにおいて、ジャカルタ憲章の復活が可能であると信じる人は、イスラーム主義者であってももはや圧倒的少数です。そして、反ナショナリズム思想のはずだったイスラーム主義を奉じる者たちの多くは、ある意味、並のナショナリスト以上のナショナリズムを時として主張するようにもなっています。奇妙と言えば奇妙なのですが、これがインドネシアの政治思想の現状です。

一体どうして、そしてどの時点からインドネシアのイスラーム主義は変容を遂げたのか?

先述の疑問と合わせて、私は長らくこのような疑問をぼんやりと抱いていたのですが、本書を通読することで、ようやく頭の中の霧が晴れたような思いがしました。私が探していた答えの一端を本書から得ることができたのは大きな収穫でした。

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