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往復書簡-インドネシア映画縦横無尽 第88信:映像から沸き立つクレテックの香り、過去から現在へ壮大な物語~シリーズドラマ『クレテック娘』(シガレットガール)より~(横山裕一)

~『よりどりインドネシア』第173号(2024年9月8日発行)所収~

轟(とどろき)英明 様

8月下旬、ジャカルタをはじめ各地で大規模なデモがありました。11月の統一地方首長選挙に向け、候補者資格を規定した憲法裁判所の判断を国会が修正しようとしたことに対する抗議です。国会が修正を試みた狙いの一つはジョコ・ウィドド大統領の次男が州知事選挙への立候補を可能にするためで、「現大統領王朝化」への布石に民主主義の危機感を抱いた学生や大衆の強い反発を招きました。デモの結果、国会での修正審議は中止に追い込まれました。近年崩れつつある民主主義を大衆が一時的にせよ守った、重要な出来事でもあります。

なぜこの話題を出したかというと、この抗議デモには興味深いことに、インドネシア映画もさまざまな形で関わっていたことです。大規模デモの前日に映画関係者の多くもSNS上に今回の事態を知らせる「緊急警報」と書かれた画像を一斉に配信して、民主主義の危機を訴えたほか、有名映画俳優レザ・ラハディアンもデモに参加して「我々の国は特定の家族の所有物ではない」と抗議演説しています。報道によると、従来、彼は政治活動には参加していないということですが、「私はこれ以上黙ってはいられない、家でのんびり寝てはいられない」と参加理由を述べ、まさに緊急事態だったことを表しています。

さらにジャカルタの国会前のデモでは、今年一番ヒットした映画『他とは違う』(Agak Laen)のテーマ曲がデモ参加者により繰り返し大合唱されました。

「♪あなたは他と違う、あなたの父は他と違う、あなたの家族は他と違う~」

軽快なリズムのこの歌詞は奇しくも立候補を目論んでいた大統領次男、ひいては現大統領への皮肉たっぷりな批判歌に変身していました。この作品はコメディホラー映画で政治的な要素はありませんが、かねてより作品を通して社会問題を訴えかける、インドネシア映画の面目躍如といえるかもしれません。

さて、ここ何回かにわたって轟さんはシリーズものの家族ドラマを取り上げていますが、興味深い内容のようですのでいずれ鑑賞したいと思います。私も前回に引き続き、インドネシアドラマについて話したいと思います。


ドラマ『クレテック娘』(シガレットガール)

今回取り上げるのは、ネットフリックスオリジナルとして日本でも配信中のドラマ『クレテック娘(シガレットガール)』(Gadis Kretek)です。この作品は同名タイトルの小説が原作で、私も遅まきながら読んでいる最中ですが、元来、原作と映像化した映画やドラマは別作品であり、両者の違いを指摘していても面白くないので、今回は原作を読み切らないうちに敢えて進めていきたいと思います。(原作の解説参照:『よりどりインドネシア』第149号所収「クレテック娘」太田りべかさん著)

ドラマ『クレテック娘』(シガレットガール)ポスター
(引用:https://www.cinematerial.com/tv/gadis-kretek-i21279114 )

この作品は、インドネシアならではの丁子(クローブ)入りのタバコ、クレテックを介して、数奇な運命を辿る男女の愛情や裏切りなどが描かれた大河ドラマです。全体を通して興味深いのは、物語自体はフィクションながら、クレテックの歴史要素が随所に盛り込まれていること、そして、若い男女がある人物の過去を辿るにつれて、お互いに自らの人生に跳ね返ってくるという、巧みな構成であることです。さらに美しい映像作りがクレテックの香りを最大限に引き出し想起させるだけでなく、ドラマのポイントを作り上げている点です。

物語は現代から始まります。首都ジャカルタの豪華マンションの一室で、ガンを患い衰弱した、大手クレテックメーカーの老オーナー、スラヤ(通称ラヤ)が三人兄弟の末息子ルバスにうなされるように願いを求めます。

「ジュン・ヤーを探してくれ!」

「ジュン・ヤー」(Jeng Yah)の「ジュン」とは若い女性の敬称、「ヤー」は名前の略称です。死の間際ともいえそうな父親の口から急に飛び出した母親以外の女性の名前にざわつく家族。訳がわからぬまま、ルバスは父親から渡された一枚の写真を手に、父親がタバコ業を始めた中ジャワ州のM町へと向かいます。

物語上、あえてM町とされているのはなぜか? ルバスがM町で最初に手掛かりを探すために訪れたクレテック博物館は実際にはクドゥスにあります。クドゥスは一般にクレテック発祥の地とされていて、19世紀末から現在に至るまでクレテック産業の盛んな街です。おそらくクドゥスを舞台の想定においた物語だと思われますが、フィクションの物語が実際のクレテック産業との混同や誤解を避けるためにもあえて架空のM町を設定したのかとみられます。原作ではM町は中ジャワ州の南部、マグランとジョグジャカルタの中間にあるとされていて、実際にMから始まる町名がいくつかあります。しかし、ドラマでは終盤にジャカルタから列車でジャワ島北海岸にあるクドゥスへ行く途中にM町駅があるとされていて、位置はまちまちです。架空の町なのでこだわる必要はないのでしょう。ただ、ドラマ内のM町の背景にはシンドロ山とスンビン山が並んで見える美しい眺望が何度か登場するように、撮影は風景重視でトゥマングンで多く行われたようです。ここもタバコ葉の一大産地でもあります。

物語に戻ると、クレテック博物館でジュン・ヤーの行方の手掛かりを探そうとするルバスは、偶然、クレテックの歴史資料を寄付しに訪れた若い女性医師、アルムと出逢います。ルバスが手にしていた集合写真に、若かりしアルムの母親が写っていたことをきっかけに、二人は協力して過去の資料を探し始めます。するとジュン・ヤーの手記が次々と見つかり、それを読み進めることで、過去のジュン・ヤーの物語が展開していきます。

ジュン・ヤーの行方を辿るルバスとアルム(Gadis Kretek. (L to R) Arya Saloka as Lebas, Putri Marino as Arum in GadisKretek. Cr. Courtesy of Netflix © 2023)

ジュン・ヤーとは邸宅の敷地内にクレテックの家内工場を持つイドルスの長女、ダシヤの呼び名であることがわかります。妹ルカヤと二人姉妹で、この妹がのちのアルムの母親です。時代はインドネシア独立戦争後15年が経った1964年。ダシヤは父親の工場を手伝うなか、味や香りを識別する才能に長けていました。このため本人自身もタバコ葉に加えてクレテックの味や香りを決める、丁子を中心とした香辛料などの調合エキスを自ら手がけることが夢でした。

しかし当時、女性が調合エキスを作ることを禁じる風習があり、女性が調合室に入るだけで調合エキスの味が悪くなってしまうとまで信じられていました。さらに追い打ちをかけるように、両親がタバコ業者仲間の息子である軍人とダシヤの縁談を勝手に決めてしまいます。彼女の手記にはこう綴られています。

「結婚まであと6ヵ月、少しずつ私の世界が崩れていく。愛すべき人生が消えていってしまう」

ドラマ序盤では1960年代はまだ女性の地位を低くみる風潮だったことが強調されます。ダシヤがタバコ葉業者に質が落ちたことを指摘しても、「女に何がわかる!お前の仕事は掃除と夫を探すことだ、わかったか!」と罵倒されます。ダシヤを演じる女優がディアン・サストロワルドヨであることから、彼女が主演を演じた、インドネシア女性解放の第一人者の伝記映画『カルティニ』(Kartini /2017年作品)を彷彿とさせるシーンでもあります。

ドラマ『クレテック娘』でディアン演じるダシヤは比較的無口で無表情な女性にも関わらず、凛とした存在感ある女性で、目や些細な表情の変化で感情をうまく表現しています。こうしたディアンの優れたセリフ以外の感情表現が、のちに紹介しますが、ドラマのキーポイントである「香り立つシーン」でも遺憾なく発揮され、ドラマの完成度を高めています。

女性というだけで抑圧されるダシヤですが、工場で働き始めたスラヤと恋仲に落ちた頃から自らの意思を貫こうとし始めます。ダシヤは結納後にも関わらず、縁談を破棄してしまいます。一時は父親イドルスの逆鱗に触れるものの、有能な従業員でもあったスラヤとの仲も両親に認められるに至ります。また、スラヤの協力でダシヤはこっそり女人禁制のクレテックエキスの調合室に入って、独自に薔薇の花びらを加えた香りのエキスを開発し、このエキスを使ったクレテックが大ヒットします。商品名は作品タイトルでもある「クレテック娘」(Gadis Kretek)でした。

ダシヤ(右)とスラヤ(Gadis Kretek. (L to R) Ario Bayu as Raja, Dian Sastrowardoyo as Dasiyah in GadisKretek. Cr. Courtesy of Netflix © 2023)

こうしてダシヤが自ら取り戻した「私の世界、愛すべき人生」ですが、再び、突如奪われてしまいます。1965年に起きた、共産党系将校によるクーデター未遂事件といわれる9・30事件を契機に全国で起きた共産党員排除の一環で、ダシヤの父親イドルスも関係するとして逮捕の手が伸びたためでした。軍人の暴行でイドルスは死亡、父親を引き渡すまいと抵抗したダシヤは逮捕されます。丁度帰宅したスラヤも軍人の発砲で足を撃たれ、ダシヤの「逃げて!」の声に従わざるを得ませんでした。怪我と疲労で朦朧としたスラヤが逃げ延びて気を失った先が、偶然にもイドルスのライバルだった、ジャガットのクレテック工場でした。ここからダシヤとスラヤは運命の悪戯に大きく翻弄され、うねりをみせていきます・・・。

ドラマにみるクレテックの歴史

この作品で興味深いのは、前述のように物語自体はフィクションではあるものの、設定や登場人物などに実際のクレテック発展の歴史に関する要素が随所に盛り込まれていることです。

まず主人公でもあるダシヤの人物設定は、タバコにまつわる伝説の登場人物、ロロ・ムンドゥットに一部なぞらえている点です。ロロ・ムンドゥットとは17世紀前半、中ジャワ州にいたとされる美女のタバコ売りです。伝説では自らが途中まで吸ったタバコを販売し、その吸い口についた彼女の唾液が甘いと評判になったといいます。作品内でダシヤは、タバコ葉をほぐした手についたタバコ葉の粉を集めて手巻きタバコを作り、父親に吸わせるシーンがあります。「父は娘の手についたタバコ葉の味が好きだから」という発言もあり、唾液と手との違いはありますが、伝説とオーバーラップします。

またダシヤの父親イドルスは、クドゥスで20世紀前半、クレテック製造で成功し「クレテック王」とまで呼ばれたニティスミトをモデルにしているようでもあります。時代設定は異なりますが、地域で一番売れているクレテック銘柄を製造していたこと、また子供が二人娘だったことなどの共通点があります。さらにドラマではダシヤの発案として、商品を多く購入した消費者に贈呈する景品である、銘柄ロゴ入りの茶器セットが登場しますが、これも「クレテック王」ニティスミトが実際に行っていた販促の景品サービスです。

このほかニティスミトが販促活動として実際に行った、飛行機を使ってのチラシ撒きや夜間遊園地の開演は、ドラマ内ではイドルス家族ではなく、ライバル関係にあったジャガットのタバコ業広報活動のシーンとして引用されています。

このジャガットはイドルス家で起きた事件から逃れたスラヤを助け、スラヤを従業員にします。スラヤの働きで大ヒット商品が生まれ、ジャガットの会社は大企業へと成長します。イドルス家のクレテック会社の崩壊とジャガット家の会社興隆の様は、ドラマのように9・30事件は絡んでいないものの、ニティスミトの企業の没落と入れ替わるようにクドゥスから全国規模に急成長した、大手クレテックメーカー、ジャルム社(Djarum)を想起させます。ジャガット(Djagat)の名前自体、「ジャルム」から作り替えたようにさえ思えます。

このように、ドラマの登場人物の設定が実際のクレテックの歴史を踏まえた作りであることは物語に厚みを持たせる役割も果たしているともいえそうです。原作小説の著者、またドラマ制作者が詳細に至るまで歴史を調べた上で、いかに物語を構築していったかが窺えます。

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