見出し画像

[2024/06/07] 国民住宅基金(タペラ)は誰のためか(松井和久)

~『よりどりインドネシア』第167号(2024年6月7日発行)所収~

大統領選挙と議会選挙が終わったインドネシアでは、10月の次期プラボウォ政権発足や統一地方首長選挙を控え、政治的駆け引き以外にも、いろいろな動きが起こっています。それは、憲法裁判所法案であり、放送法案であり、ヌサンタラ首都庁の正副長官の辞任であり、最高裁による地方首長選挙立候補者の年齢制限改訂の承認であり、と様々です。今号からしばらくは、そうした動きをピックアップして、『よりどりインドネシア』で取り上げて論じてみたいと思います。

本稿で取り上げるのは、巷で話題となっているタペラ(Tapera)、すなわち国民住宅基金(Tabungan Perumahan Rakyat: Tapera)についてです。国民住宅基金とは、低所得者を含む国民が適切かつ手頃な価格の住宅を購入するため、長期的に積み立てられる貯蓄のことです。この長期貯蓄は、まだ住宅を持っていない国民が初めて住宅を購入したり、住宅購入のための低利融資を受けたり、購入した住宅の修繕を行なったりする際に使うことができる仕組みです。

国民住宅基金によって建設された低所得者向け住宅
(出所)https://money.kompas.com/read/2024/06/05/000300526/bp-tapera-buka-suara-soal-dana-124960-pensiunan-pns-belum-cair

この手の住宅基金はスハルト時代からありましたが、その対象は公務員で、1993年に公務員住宅基金(Tabungan Perumahan [Taperum] PNS)が開始されました。資金は公務員給与からの天引きで、年を重ねるごとに基金の資金額が大きく積み上がってくると、その運用状況が明らかにされないまま、一部の役人が不正を行う温床となりました。会計監査院(BPK)による監査は難しくなる一方、1995年時点で、運用資金3,528億ルピアに対して約1,800億ルピアもの損失が予想される事態となっていました。

現在の国民住宅基金の根拠法は、第1期ジョコ・ウィドド政権下で成立した2016年法律第4号(国民住宅基金法)です。その実施規則として、政令2020年第25号が定められ、その後、政令2024年第21号によって改訂されています。

本稿ではまず、国民住宅基金の何が問題視されているのか、なぜ反対の声が高まっているのかについて考えます。次に、民間調査会社の報告書『国民住宅基金は誰のためか』を参考にしながら、別の面から国民住宅基金の問題を指摘します。そして最後に、政府が国民住宅基金を進めようとする真の理由は何かについて考察してみます。


国民住宅基金の加入対象者はすべての就労者

まず、指摘したいのは、国民住宅基金の加入対象者は公務員だけでなく、すべての就労者へ拡大したことです。民間企業で働く者も、就労ビザを持つ外国人も、インフォーマルセクターや中小零細企業で働く者も、例外なく加入対象者となったことです。

加入対象者が拡大させた理由の一つは、低所得者向け住宅の需要が供給よりも多く、不足分(Backlog)が大量にあることです。その件数は2015年時点で1,350万戸にのぼります。その後、不足分の数は徐々に減少し、2023年には990万戸となりました。それにしても、まだかなりの量の不足分が存在する状態に変わりはありません。

政府には、国家予算から支出される住宅金融流動性ファシリティ(Fasilitas Likuiditas Pembiayaan Perumahan: FLPP)という制度がありますが、これによって供給される住宅は年30万戸に留まります。このため、公務員以外の民間一般へ国民住宅基金の加入対象者を拡大し、低所得者の住宅所有を加速化させようとしたのです。

次に、国民住宅基金は、基本的に低所得者向け住宅のための基金ですので、基金へ拠出金を払う加入対象者は全就労者であるものの、その資金を使って住宅を購入したり、国民住宅融資(Kredit Perumahan Rakyat: KPR)を受けたり、住宅を修繕したりできるのは、12ヵ月以上基金に加入した住宅を所有していない低所得者に限られます。ここでの低所得者とは、月収800万ルピア以下の者(パプア地域在住者は月収1,000万ルピア以下の者)と定義されています。

国民住宅基金は、定年退職時(個人事業主の場合は58歳に達したとき)、死亡、恒久的なインドネシア国外居住、加入者資格喪失、5年連続で加入要件を満たさない場合に脱退となり、加入者が払い続けてきた拠出金は、加入者の請求に基づき、脱退から3ヵ月以内に払い戻しを受けることができます。

このため、月収800万ルピアを超える者、すなわち低所得者以外の加入者は、上記の形で脱退となるまで、基金へ拠出金の支払いを続けることになります。脱退まで支払い続けることで、何らかのメリットがあるかどうかについては、まだ何も定められていません。現状ではとにかくただ支払い続けるだけです。

国民住宅基金への支払は給与・賃金からの自動引き落とし

ところで、国民住宅基金のなかで最も問題視されているのは、国民住宅基金への拠出金の支払が、給与や賃金の3%の自動引き落としであることです。

このうち、就労者からは給与や賃金の2.5%が引き落とされ、雇用者からの0.5%と合わせて3%が国民住宅基金へ納入することになります。いわば、「強制貯蓄」のような形であり、とくに最低賃金に近い低所得者にとっては、相当に痛い出費となるはずです。

たとえば、労働者の立場からすると、所得税が5%、健康保険料(iuran Jaminan Kesehatan)が1%、退職金積立が1%、老齢保障が2%で、すでに賃金の9%が天引きされるうえに、国民住宅基金2.5%が加わると、実に賃金の11.5%が毎月天引きされることになります。ただでさえ、物価上昇で家計が苦しいなか、これに借金や消費者ローンなどの返済が加われば、相当に厳しいのではないでしょうか。

労働組合は、国民住宅基金に反対する街頭デモを繰り返すとともに、国民住宅基金法への異議申立を憲法裁判所へ訴える意向を示しています。また、0.5%を負担する雇用者側でも、経営者団体などが反対声明を出しています。

国民住宅基金(Tapera)拒否の横断幕を掲げる労働組合のデモ(2024年6月6日)
(出所)https://www.cnnindonesia.com/nasional/20240606140352-20-1106653/buruh-demo-tolak-tapera-bisa-bisa-pulang-cuma-bawa-slip-gaji

ところで、上述の参加対象者の拡大や給与・賃金からの3%天引き、低所得者以外は住宅関連での基金利用ができずにただ支払うのみ、という内容は、今回の政令2024年第21号で初めて定められたものではありません。全く同じ内容は、改訂前の政令2020年第25号にも書かれており、なぜ今、騒いでいるのか、という疑問が湧いてきます。

そこで政令2020年第25号を確認すると、第68条のなかで、政令2020年第25号施行(2020年5月20日)から7年以内に、国民住宅基金庁(BP Tapera)へ従業員を加入登録することとされています。すなわち、2027年5月までに民間企業を含むすべての就労者へ適用されることになります。それまでは公務員などに限られていたのが、切迫感をもって意識されるようになったと言えます。そして、従業員の加入登録を行わなかった雇用者に対しては、文書による警告、罰金、営業許可の取り消しなどの制裁が科せられます。

それにしても、国内の全就労者から事実上「強制貯蓄」させる国民住宅基金は、膨大な額になるものと想像できます。それはどのように運用されるのでしょうか。そして、本当に低所得者向け住宅関連だけに使われるのでしょうか。

以下では、民間調査会社CELIOS(Center of Economic and Law Studies)の報告書を参考にしながら、国民住宅基金のさらなる問題について見ていきたいと思います。

ここから先は

2,610字
この記事のみ ¥ 150
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?