[2024/06/07] スラウェシ市民通信(9):魚を追いかけ、6ヵ月間の移住生活~マカッサル海峡を渡るパジュクカン村の漁民たち~(2007年9月翻訳)(ニラム・インダサリ/松井和久訳)
~『よりどりインドネシア』第167号(2024年6月7日発行)所収~
なぜ南カリマンタンへ?
クンブン(サバ)漁の季節が来ると、南スラウェシ州マロス県のパジュクカン村は死んだようにひっそりとなる。この村の大半の漁民たちが、約6ヵ月の間、マカッサル海峡を挟んだ対岸の南カリマンタンへ、海を渡って漁に出かけるからである。こうした漁の伝統は先祖伝来のもので、世代から世代へと受け継がれてきた。
今回(2006年)の場合、80隻の漁船が出帆したが、一隻に平均で20人が乗り込む。すなわち、1,600人の村人が毎年、漁の季節になると一斉に村を離れるので、この村は死んだようになるのだ。
でも、どうして彼らは南カリマンタンへ出かけなければならないのだろうか。それは、南カリマンタンのバンジャルマシン海域付近で大量に見られるクンブンを漁獲することが目的だからである。12月から5月にかけてがこの魚の漁獲シーズンである。海を渡る南スラウェシの漁民はこの魚を「イカン・バンジャル」とか地元の言葉で「バニヤラ」(banyyara)と呼ぶ。一方、南カリマンタンのバンジャル人は「ルマルマ」(ruma-ruma)と呼ぶ。
バンジャル人の間で、この魚の種類はとてもよく知られている。しかし、南カリマンタンの漁民たちはこの魚を獲りに出かけない。彼らが目指す魚はトゥンギリ(サワラ)やトンコル(マグロ)である。そして面白いことに、南カリマンタンの漁民が獲らないクンブンを漁獲するために、パジュクカン村の漁民がバンジャルマシン海域で運命を任せようとするのである。
バンジャルマシン海域で、パジュクカン村から来た漁民たちは5~7日ごとに海に出る。強風に煽られたり、高波が押し寄せたりしても、漁に影響が出ることはない。パジュクカン村の漁民にとって、それらは海に出る者なら誰もが直面するただの危険に過ぎないのである。それよりも漁民の頭を悩ませるのは、船を出している間に大量に必要となる燃料の価格上昇である。
昼も夜も、彼らはパレンゲ(parengge)と呼ばれる漁具を仕掛けることに忙しい。パレンゲはナイロン紐でできた網に似た漁具である。パレンゲ以外に、もっと小型のガエ(gae’)も使う。食料や燃料の予備が少なくなると、彼らは陸地へ戻る。あるいは、無線で家族へ連絡して、予備を洋上まで持ってきてもらう場合もある。
豊漁のときには最安で一尾700ルピア(約7円)だが、漁獲が少ないときは洋上で地元漁民に同1,500ルピア(約15円)で売れる。この地元漁民は、漁民と消費者を介在するブローカーの役割をする。パジュクカン村の漁民は、一週間の漁で最大2,000万ルピア(約20万円)の収入を得ることもあるが、漁獲が少なければ、手ぶらで陸地へ戻ってくることになる。
一時的な住民になる
南カリマンタンには、これら南スラウェシからの漁民が訪れる村が2つあり、6ヵ月の間、彼らはこの2つの村の一時的な住民になる。これら2つの村はキンタップ郡キンタップ村とジョロン郡ムアラ・アサムアサム村であり、2つとも同じ南カリマンタン州タナ・ラウト県に属する。実は、ほかにも海に近いところにいくつか村があるのだが、この2つの村だけが幅の広い川に面しており、漁民たちの船が海から入って停泊できるのである。
パジュクカンの漁民の話によると、バンジャル地方の地元住民は、この地方へ航海に来るマロスやセゲリやマンダール(訳注1)の漁民から航海術を学んだという。それどころか、バンジャル地方で漁船を造っているのは、ボネやラハ(訳注2)の人々なのだそうだ。一般に、漁船を建造しているのは、南カリマンタン州コタバル県のパガタン地区である。
出発の前に
今回、漁民たちが出帆する数日前、パジュクカン村で、私は、やはり南カリマンタンへ向かうという一人の村人と出会った。ハッジャ・リナという女性で、村人たちは11月30日に出発するという。
出発の前に、彼らが行う儀式がある。このバラサンジ(barasanji)と呼ばれる儀式は、旅に必要な物資を最初に船へ載せるときに行われる。出帆予定の船それぞれの甲板で20~40人が出席して儀式は行われる。出席者は祈りの言葉を捧げ、その言葉を空へ向かってパッと飛ばすような仕草をし、船主と出発する一行の航海中の安全を祈願するのである。
祈りを捧げた後、あらかじめ用意されていた食べ物が供される。カド・ミンニャ(kado’ minnya’)と呼ばれるもち米、伝統的な菓子、そして2房のバナナなどがバラサンジに出席した人々へ配られる。
私は、この季節に航海へ出かける漁民たちに話を聞いた。アムランという16歳の青年は、今回が2回目の航海になるという。しかし彼はこの村の住民ではなく、遠く離れたジェネポント(訳注3)の出身である。村のある漁民から船を手伝うように言われてやってきたのだという。
私はこの夕方、あまり多く話を聞けなかった。激しい雨が急に降り出し、ちょうど桟橋の近くにある友人の家に戻ったからである。私の友人の家族は出帆しないのだ。なぜなら、航海に出るのは、実は、この村の元々の住民だけなのである。
よそからやってきた者は、通常は養魚池を運営・管理する。一方、元々の住民はといえば、南カリマンタンへ航海して戻ると、ジョロロ(jolloro’)と呼ばれる細長い小さな船だけを使い、岸壁近くの沿岸で魚やカニやエビを探すのである。
村を離れる光景
次の日の夕方、私は再び桟橋に戻った。今回のほうがにぎやかな雰囲気だ。村人はバイク、冷蔵庫、テレビ、マットレス、その他家にあるもののほとんどすべてを船に運び込んでいる。ニワトリやガチョウなどの家畜もカゴに入れられ、船の甲板の後部に置かれていた。まるで、一家をあげての離村の光景を見ているような気がした。
南カリマンタンに着くと、それらの荷物は、あらかじめ購入しておいた彼らの家々に搬入される。でもなかには、そこの住民の家を借りるだけの者もいる。賃料は6ヵ月間で200万ルピア(約2万円)であり、彼らの船を接岸する桟橋の借料もそれに含まれている。
「残された家には、きっとヤモリとネコとネズミしかいないだろうな」と笑いながら言うサフルッディンは、マカッサル海峡を渡って航海へ出かける船の船主である。サフルッディンは1998年に船を購入したが、彼が南カリマンタンへ航海したのはそのときが初めてではない。37歳の彼は、赤ん坊のときから家族に連れられて航海してきたのである。漁が上手になると、彼も洋上で魚を探す作業に加わった。
ようやく8年前に船を買えるだけの資金ができ、購入した船に「共に祈る」(Doa Bersama)と名づけた。この船名は彼の父親や兄が使ってきた2隻の船と同じ名前である。この村では、漁民という職業は先祖代々の職業なのである。
ムハッマド・ヤシンという33歳の漁民も桟橋に座っていて、私に話しかけてきた。彼によると、この村の漁民がバンジャル海域へ航海に出る伝統は1950年代に始まったという。その頃の船にはまだエンジンが付いておらず、帆をかけ、櫂で漕いで航海した。1960年代になって、漁民はエンジンを使い始めた。かつては約2週間かかっていた航海が、エンジンのおかげで2~3日間に短縮されたのである。
漁民たちは、自分たちの持つ土地の権利書を担保に借り入れた銀行からの融資に大いに助けられている。船の値段はけっこう高く、約3,000万ルピア(約30万円)もする。中古船を購入する場合は1,500万ルピア(約15万円)ぐらいである。これらの値段には、2,000万ルピア(約20万円)にもなるエンジン代はまだ含まれていない。銀行融資のおかげで、前は船を持てなかった漁民の多くが船を買い、航海へ出られるようになったのである。
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