「ハラスメントかどうか」は本当に受け手の感じ方で決めるべき問題なのか?
現在、宇崎ちゃんの献血のポスターがTwitterで話題になっています。ある者は環境型のセクハラだといい、そしてある者は表現の自由だと言い、別のある者はオタクに対する偏見だと言っています。
それらの意見は、どれもそれなりに一理あると思うのですね。「女性の胸を強調した描写は女性の性的対象物として扱っているのではないか?」と言う問いかけは十分に理解できるものです。
しかしその一方で、性的対象物ではない異性の存在というはそもそも存在し得るのか?というような問いかけも可能です。
生物は発達の過程でDNAの多様性を上げるための仕組みとしてオス・メスという性別に分かれ、性行為を行うことによってDNAが混ざり合う仕組みを作り出しました。つまり、性別の存在や性行為というのは、DNAの多様性を高めるためのメカニズムなのです。ですから、オスとメス、つまり男と女がお互いを性的対象として認識するのは自然の摂理です。ですから異性を性的対象として見るなというのは、実は人間をやめろと言うくらい乱暴な主張なのです。生物として自然に備わった機能をなかったことにしろと言っても、別段問題の解決になりません。
表現の自由はどうよ?
また、日本では憲法で表現の自由が保証されていますから、「私が気分を害したのだから撤去しろ」という発言はやっぱりいただけません。例えば、一連のツイートの中で、こんなツイートも散見されたのですね。
「宇崎ちゃん取り止めないなら献血許否しよう!
特に男性、ただしい脳による判断ができるかどうか試されています。」
どんなにこのポスターを不快に思ったとしても、「献血拒否を他人に呼びかける」のは、やはりいくらなんでも行き過ぎだと思うのですね。自分の主張を押し通すためなら、献血を必要としている人たちが犠牲になっても構わないとも取れますから、あまりに不用意な発言でしょう。
ハラスメントは本当に受け手の感じ方で決まる問題なのか?
この他にも、「ハラスメントかどうか決めるのは受け手がどう感じたかだ」という意見も散見されます。
「女性の身体パーツを性的に誇張した絵が掲示されていて、それによって女性が抑圧されたと感じたら、その女性に対してその表現は確かにセクハラとして機能してると思うんだけど。」
これもわからなくはないのですが、仮に受け手の感じ方でハラスメントかどうか認定していいのなら、気分次第で誰でもハラスメントの加害者として認定できることになります。そしてこの、「私の感じ方次第で断罪できる」という世界は、僕らがぼんやりと考えているよりもずっと恐ろしい世界なのです。
そんなわけで今日は「私の感じ方次第で断罪できる」という主張の延長にどのような世界が展開し得るのか、冷静になって考えてみたいと思います。
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