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京都と水/その4

京の黒染め ー柳の水と馬場染工業の挑戦ー

烏丸通と堀川通の間にある西洞院通には、元々、川が流れていました。そのため西洞院通はまわりよりも少し低くなっていて、碁盤目状の京のまちなかに、小さな谷筋をつくりだしています。

宝暦12(1762)年に刊行された『京町鑑』には、「この通りは山城(京都がある山城国のこと)の谷川で、この川の東西の地形は高い。西洞院通よりも西の地区を川西という。蛸薬師を下ったあたりから町の真ん中に川があらわれる。その流水は染め物にたいへんよく、よって衣服を染める諸職人が多く住んでいる。川端にはところどころに井戸があり、水は清冷である」と書かれています。
京都の各町や旧跡の沿革を記す『坊目誌』には、西洞院川は一条あたりから流れ下っていたとあります。川は最終的には七条を経て、桂川に合流していたようです。

馬場染工業と西洞院通周辺の水景マップ
(下図:Google Earth)

西洞院川沿いで営まれていた染め物業は、かつて「憲法染」とも呼ばれていました。憲法染とは、室町時代に将軍家の兵法師範をつとめ、吉岡流剣術の祖とされる吉岡憲法が創始した染め物のことで、西洞院川の流水を利用した墨茶染だったそうです。

今はない京都のまちなかの川と、その川に紐付いて営まれていた染め物に興味をもち、西洞院通を歩いてみることにしました。

すると行き当たったのは、「柳の水〔やなぎのみず〕」の小さな看板。千利休も使った名水だと書かれています。その柳の水は、「秀明黒染元 馬場染工業株式会社」の敷地内にあるようです。

西洞院通りに面している馬場染工業の表に、「柳の水」の看板が。
路地の中に柳の井があります。その奥が工房。

「内に碑があります」の文言を頼りに中へ入っていくと、石敷の路地の奥に、柳の水の井戸がありました。傍らには、18世紀前期編纂の『京都御役所向大概各書』より当社四代目の馬場孝造氏がまとめ、建立された碑が設置されています。

柳の井のいわれが記された石造の碑。

この地はその名も柳水町〔りゅうすいちょう〕といい、平安時代末期には崇徳上皇の院御所があり、近世初期には織田信長の次男である信雄の屋敷だったとのこと。信雄の屋敷跡はその後、紀州徳川家の京都屋敷になったとあります。千利休も使った水だということは、貞享元(1684)年成立の『雍州府志』に書かれているようです。
『日本歴史地名大系』でも柳水町のことを調べてみると、織田信雄の屋敷は馬場染工業も位置する西洞院通の東側に位置し、また、その跡地は貞享年間(1684-88)以降に紀州徳川家の屋敷になった、とありました。

西洞院川、良質な地下水、染め物という生業の間には深い関係がありそうです。
日を変えて、改めて工場にお邪魔しました。

現在、馬場染工業は五代目の馬場麻紀さんが取り仕切っておられます。あたたかく気さくな方で、見学と染め体験の申し込みを快く引き受けてくださいました。

五代目「柊屋新七」・黒染師の馬場麻紀さん。

この地に馬場染工業が創業したのは、明治3年のこと。
初代が黒染めを始め、二代目は藍染と紺染を手がけましたが、三代目が再び黒染に戻されたそうです。そして、吸い込まれるような漆黒の染めを極めたのが、麻紀さんの父にあたる四代目柊屋新七でした。

四代目の時代には、京都の着物生産量は増え、分業化も進みます。馬場染工業では、それまで行っていた引き染め(刷毛に染料をつけて染める方法)などを全てやめ、漬け染め(浸染)に特化。


工場の中。今日は体験用のセッティングをして頂いていますが、注文の黒染作業を行っている時には、天井のレールからたくさんの衣類や布地がぶら下がるそうです。

四代目が探求した黒染めは、”黒よりも黒い“ 染め。それが評判を呼び、全国から注文が押し寄せました。当時の四代目は深夜0時から1時頃まで作業し、翌朝は6時半頃からまた工場を稼働させるという日々だったそうです。従業員も31人という多さ。麻紀さんが子どもの頃の工場の記憶は、”黒と(染める前の反物の)白だけの世界“。

黒染作業を行う、馬場染工業の中核部。 染め作業がしやすいように各種のタンクや流しが設置されています。
使い込まれた道具類。

あまりに多数の注文に、手作業だけの工程では追いつかず、四代目は自力で機械も開発しました。深い黒の出し方と染色の機械が馬場染工業から周辺の工場にも広がり、黒染業界全体が潤ったと言います。

馬場染工業が立地する西洞院通り周辺には、染めや着物に関わるさまざまな職人が集まっていました。糸を染めるところから着物が仕上がるまで、すべての工程を地区内の分業でまかなえたそうです。
職人の手描きによる龍の紋。今年の干支ですね。目を見張る精密さ。

時代の変化もあり、五代目の麻紀さんは、着物から洋服へと染めの対象を広げます。
大手アパレルメーカーの協力会社でテキスタイルデザイナーをしていた麻紀さんは、まさか黒染を継ぐとは思っておられなかったそうです。

ところが、ある日、事件がありました。着物の需要が高かった時代が終わり、後継者もいないと考えた四代目が、これまで継ぎ足しを重ねてつくってきた ”老舗鰻屋のたれ” のような黒染の染料を、「ご先祖さま、すいません、すいません」と謝りながら、タンクのバルブを開けて流し始めてしまったのだといいます。バルブを開ける父の手を必死に食い止めながら、麻紀さんはその場で、「黒染を継ぐ!」と決意しました。

それから麻紀さんの挑戦が始まります。自作のホームページで小物のネット販売を始めると評判を呼び、また、洋服の黒染注文も少しずつながら入るようになりました。最初は月に10着くらいだったそうですが、次第に受注量も増え、今では思いがけないぐらいの依頼があるそうです。

柊屋新七の歴史やご自身のチャレンジを語って下さる馬場麻紀さん。

工場内での体験や解説も、麻紀さんが始めた取り組みのひとつ。工場で染められた黒染の小物に、紋付け体験をすることができます。

黒紋付を代表とする和服用の黒染には、「藍下」と「紅下」という種類があります。藍下とは、生地をまず藍で青く染めた後に黒染を施すこと。紅下〔べにした〕とは、赤く染めた後に黒く染めることです。藍下は、現代に多い蛍光灯が使われた室内で着物を見たとき、”高貴な黒” に映る。紅下は太陽光のもとで“奥深い黒”に見えるそうです。どんな場面で、どんな着物に見せたいか。それによって下地を青くするか赤くするかを選ぶとは、驚きでした。

洋服の黒染は、コートやジーンズ、シャツやスーツなど、既製服の染め替えや染め直しが主体です。これらには着物のように絹が使われているわけではなく、化学繊維を含めて様々な素材が使われています。きれいに染まりやすいのは天然繊維100%の生地など。ポリエステルは染まらないなどのデメリットとメリットをお客さんに丁寧に伝え、綿密に打ち合わせをしながら、持ち込まれる衣類毎にどんな黒染に仕上げたいか、一緒にイメージを作って下さるそうです。服に付いている皮やボタン、染まり方が異なる素材などは取り外し、本体の黒染後にまた付け直すという細やかで手間のかかる作業を請け負えるのも、麻紀さんが洋裁を得意とされているゆえ。
五代目「柊屋新七」、馬場麻紀さんならではの黒染なのだと感じました。

黒染師・柊屋新七の歴史や技のお話にうなったあと、いよいよ紋付け体験。

家紋や戦国武将紋など、それぞれ好きな紋を選びます。学生間で人気が高かったのは「誕生日紋」。
閏年の2月29日分を含めて、366日分、それぞれ違う誕生日紋があります。
いくつもポイントがありますが、馬場さんや社員さんから入念に事前指導頂けます。
成功! きれいにできました!
先生も挑戦。無事終わった学生たちに囲まれて、ちょっと緊張?
先生の紋付けも仕上がりました!

紋付けをした黒染製品はその場で持ち帰ることができます。
トートバッグ、Tシャツ、風呂敷などにも紋付けできます。

そして、肝心の「柳の水」のこと。
柳の水の水質を検査すると、少し鉄分を含んでいるのだそうです。
鉄分は、黒染の媒染剤にもなる鉱物です。

京都の地下水のメカニズムに詳しい関西大学元学長の楠見晴重先生に以前お話をうかがった際に、京都の地下水に鉄分はどこでも混ざるものではなく、局所的なものだろうとおっしゃられていました。

西洞院川周辺の水は染め物によく、しかも、元々ここでは墨茶染が行われていた。その地で明治3年に創業した馬場染工業・柊屋新七が、現代に黒染をつないでこられました。
この水の性質に沿った、ゆえある物語と生業が、西洞院通のこの柳水町に、綿々と紡がれているように感じました。

最後は皆で柳の井の水を味わいました。

柳の水の味は柔らかく、するすると体に沁み込むような気がしました。

馬場染工業の路地内にある柳の水は一般開放されていて、誰でも汲むことができます。
隣の事務所や奥の工場では、麻紀さん、そして去年から新たに工房へ加わったという六代目の息子さんが、もしかすると黒染作業中かもしれません。

今回の訪問を快くお迎え下さり、また、様々なお話をお聞かせ下さった馬場麻紀さん、社員の方々に、この場をお借りして厚くお礼申し上げます。


それでは、また。

主な写真:塩見悠一郎(松田研M1)
参考文献:「西洞院川」「西洞院通」「柳水町」,『日本歴史地名体系』,平凡社


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