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市場とわたし

七曲市場は通学路だった。

家から徒歩五分程度の場所にあるその市場は、私が小学生の頃とても活気があった。魚屋や果物屋から聞こえてくる「さあ、毎度や毎度や~」の威勢のいい掛け声をバックに市場を通り抜け、学校に行く。令和の今ではあまり見られなくなった光景だ。

小学校から坂を下ったところにあるその市場は、曲がり角が七つあることから「七曲市場」と呼ばれるようになったと聞く。同級生の親がやっていたお店も多く、豆腐屋や乾物屋にいる顔見知りのお母さんたちに挨拶をしたり、時に買い物に来ていた自分の母親や祖母と会うこともあった。

学校帰りの買い食いは禁止されていたが、母に偶然会ったときは、大きなガラスの寸胴から柄杓ですくって注がれる冷やし飴を買ってもらえた。少しの背徳感を味わいながら、市場で立ち飲みする薄甘い冷やし飴のおいしさは格別だった。

かつお節屋の前に洋服屋があり、「ショーウィンドウの服にかつお節の匂いがつきそうちゃう?」と一歳下の妹と笑う。雑多なお店がひしめき合うその空間は、いま思えばまだ戦後の匂いがうっすらと残っていた。総菜屋では和菓子も売られていて、ひし餅が並ぶとひな祭り、柏餅ならこどもの日と、市場の食べ物で季節の行事を知るような子どもだった。

七曲市場を抜けると自分の家まではすぐだ。でもそこに漂う別世界のような独特の空気に魅せられて、ゆっくりと市場を歩いて帰る時間が楽しかった。私の寄り道好きは、この時に養われたのかもしれない。

すばらしいネーミングセンス

 いま大人になった私は、日々の買い物を仕事帰りや時間が空いたときにパッと買える近所のスーパーで済ませている。時にそれすらも面倒になり、ネットスーパーを使うこともある。それはとても便利だし、時間の節約にも役立つ。ひとつの場所でほぼすべての食料雑貨品を手に入れることができて、しかも現金要らずとは、昔なら考えられないことだ。

あまりにもそんな生活が普通になってしまい、最近はスーパーに行くことすら億劫になってきた。人間とは勝手なものである。でも本当は、物や選択肢の多さに疲れてしまったのかもしれない。

気づけば近所の産直市場によく行くようになっていた。そこは新鮮な野菜が中心で、ヨーグルトや納豆は置いていない。目新しいお菓子もない。牛乳は一種類だけで、ときに売り切れていることすらある。牛乳がほしかったときなどは、帰り道にそのためだけにコンビニに寄らなければならない。とても不便だ。けれどつい行ってしまう。なぜだろう?と考えて気がついた。七曲市場に似ているからだ。

スーパーよりも小ぢんまりとしたその市場では、店員さんもフレンドリーに話しかけてくれる。「これおいしいよ」とお店の人に声をかけられると、つい買いたくなる。
画面上でのやり取りやAIとの会話が増える日常で、市場の匂いを思い出させる人との触れ合いが貴重になってきたのだろう。そんなノスタルジックな気分も手伝って、私の足は今日も引き寄せられるように産直市場に向かう。

でも、理由はそれだけではない気がした。私は七曲市場を抜けて学校に通っていたあの頃の自分に還りたかったのだ。親や周りに守られて、何の責任も持たなかった小学生の私。当時は自分に正直で、ほとんど他人の目を気にせず行動していた。

あの頃の通学路を歩くアメリカン夫

それが中学に上がり、高校、大学と進むにつれ、私は他人にどう思われるかを気にしてばかりいた。周りに合わせて自分をコントロールすることがうまくなり、他人と比べては落ち込み、自分を否定しながら先へ進んでいく。それが「大人になる」ことだと勘違いしていたし、三十代も四十代もその延長で生きてきた。

人生の折り返し地点を過ぎて、私はようやく自分の心に素直になって生きようとしている。遅すぎる。でも気づいただけでもよしとしたい。寄り道好きが高じて遠回りしたけれど、人に言えない失敗や思い出したくない過去を重ねてきたからこそ、「自分の感覚を最優先する」ことは、結局は自分の家族や大切な人にとってもベストなのだと気づいた。

七曲市場が通学路だった頃の私が、自分の原点だった。そのピュアな原点に戻ることは簡単なようで一筋縄ではいかない。頭にこびりついた価値観や思い込みを洗い流す作業は、思った以上に大変だからだ。それでも、やる価値はある。大人になった今すべての責任は自分にかかるが、望むところだ。

私は、「わたし」に会いたいとずっと思っていた。七曲市場に似た場所に惹かれるのは、心の奥にしまい込んだ本当の「わたし」を取り戻すための小さな儀式なのである。

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