まつばらあやかの今まで&これからなど
東京生まれ渋谷育ち。(1994年~/0~3歳)
1994年3月17日、愉快で自己中な父親と、優しく面倒見が良い母親のもとに、都会のど真ん中で生まれたわたし。
両親のルーツは、ヘッダーの写真の撮影地でもある奄美大島。
お風呂でうんちしたり、極度の内弁慶で人見知りがずっと抜けなかったり、迷惑ばかりかけながら、わがままを沢山言いながら育ちました。私が逆の立場だったら、と想像するだけで大変すぎて。笑
多様な国籍の未就学児が集まる自由な塾みたいなところに折角入らせてもらったのに、内気すぎて友達も作らずすみっこでひとり。
英語をネイティブの先生から妹達と一緒に学んだり、自宅にも先生を招いて生の英語を聴きながら遊んだり、英語だけは楽しく学べていた気がします。
ある時、先生と家の前の道路にチョークでお絵かきしたことが原因で父に怒られて、それ以来先生は来なくなりました。笑
【追記】あの時のわたし、大変だったよね?と母に訊いたら、「最初は喋らなさすぎて病気かと思った。けどしばらく様子を見ているうちに、性格が繊細だから起きていることだと分かった。そこで無理やり喋らせてもきっと偏屈な大人になるでしょ?当時は人の好き嫌いがはっきりしてただけじゃない?家の中で喋れば充分。両親の子どもに対する姿勢、子どもであっても1人の人間として見ることが大事。」とさらっと返ってきた。母は言葉で表現するのは得意ではないけど、感覚はものすごくて、それで読み取ったことを姿勢で教えてくれる。尊敬の一言。笑
友達が0だった幼稚園生時代~やっと少し人間になれた小学生時代。(4~12歳)
幼稚園に入園しても、内気すぎて全く喋らないので友達は出来ず、ずっと砂場で先生と遊んでいたことをうっすら覚えています。更に顔が濃いので「インド人」といじめっこたちの対象になったり。
どれくらい内気だったかというと、授業中に「トイレに行きたい」が先生に言えず教室でもらしてしまうくらい。笑
小学校入学後、隣の席になったえりちゃんというおしゃれ好きで中身はぶっとんでいる美少女が奇跡的に友達になってくれた。
いつも手を繋いでいてくれたし、授業中も学校が終わった後の遊びや習い事でも、ずっと一緒にいてくれた。彼女が誰かを好きになれば私も便乗してその男の子のファンになったり、彼女が好きなブランドの服を自分も好きになったり。四六時中ってこういうことか、ってくらい一緒。笑
小学3年生になりクラス替えがあるタイミングまで、こんな感じでずっとえりちゃんにべったりで、友達は唯一えりちゃんだけだった。当時の私はその有難みに気付いていなかったけど、本当に感謝しかない。
えりちゃんは、今は更に超絶美人になってぶっとびにも磨きをかけていて、今でも年1回くらい会って近況報告をし合っている親友!
小児ぜんそくを持って生まれたので入院と退院を繰り返しながら通っていて、少し走ったりするとすぐ発作が出るので体育の授業は休みがち。そうなるといじめも起こったり、中々学校になじめなかった。
小学3~4年生の時担任になってくれた村山先生とは、うちで生まれた子犬を譲ったことがきっかけでプライベートでも仲良くなって、今でも何年かに一度やりとりをさせてもらっています。
小学5年生までは限られた友人としか話さなかったので、誰とどんな話をしていたとか記憶が全く無い。その上言うことを聞かないので(何か言われてもあまり理解しようとしていなかったと思う)、先生たちもかなり苦労しただろうな…と。笑
なぜ小5かというと、小5の時友達に「なんでまっつーは喋らないの?」と訊かれ「なんでだろう?」と自問した時に、「喋ってみよう」と思い立ったことがきっかけで、少しずつ自己主張をするように。
仲良くなった男子をけっとばしていた記憶もあるくらい、一時期めちゃくちゃオープンになってた気がする。笑
なのに「癒し系」の称号をもらっていて、どこが癒し系だったのかな…?と疑問。保育士になりたい、とは言ってたけど。
でもプレゼン系の授業が嫌いでいつも逃げていたり、委員会はいつも目立たない清掃委員。嫌いなものからは徹底的に逃げていました。
父から言われて「お受験」をすることになったんですが、頭が悪いのに勉強しすぎて死にたくなって、家庭教師さんと勉強中に窓に亡くなったおじいちゃんが見えたことも。笑
結局自信満々で受験しにいったのに、全て不合格。
今思い返すと、勉強はしていたけど頭を使って「理解」することは全く出来ていなかったと思う。
女子校で女子にまみれた中高時代。(13~18歳)
全て受験に落ちたので、偏差値がびっくりするくらい低いお嬢様系の女子校(中高一貫校)に進学。
最初は友達を作ろうと頑張っていた気もするけど、疲れて人見知りが発動して、初っ端からいじめられる。というか最初は冗談でいじられていたことをいじめだと勘違いして(初めてだったので)しゅんとなるのを繰り返してたから、本当にそうなったのかも。
英語だけは好きだったので、中2でカナダ短期留学に試しに行かせてもらえた時にめちゃくちゃ楽しくて、英語にはまる。英語だけは毎回成績上位で大好きに。うぇいうぇい系の苦手な友人にも、好きな科目で勝てることが快感だった気がする。ちなみに中高で合計3回は短期留学でバンクーバーに行かせてもらって、両親には心から感謝。いつか長期でも行こうと決心。
理数系は超苦手で、10点代とかも全然あったり…。でも得意な公式の出題がある数学や、生物など関心がある教科のテストはほぼ満点だったり、落差がものすごい。笑
嫌いな教科の宿題が本当に嫌いで、忘れることも多くて(下校した瞬間忘れる)、何度も同じ先生に、なぜ宿題をしてこないのかと、立たされてみんなの前で委縮しながら怒られたりもした。「理解」することをしていなかったので、なぜ宿題をしないと先生に怒られるのか、当時は本気で全然分からなかった。
高校2年の時に初めて出来た彼氏は、近くのコンビニで働く大学生。仲良くなろうとコンビニに通ったり、メモにメールアドレスを書いて渡したり(頑張った)。バレンタインの雪の降る日にお付き合いをはじめるという、当時の私には甘すぎる思い出。笑
彼は確か当時大学3年生で、後に私が憧れて目指すことになった大学の学生でした。彼に毎週単語テストをしてもらったり、大学生のおしゃれを教えてもらったり、初めてデートをしたり、サプライズをしてもらったり。そんなに長くは付き合わなかったけど、未知の世界を教えてくれて毎日ワクワクで、すごく楽しかったことを覚えてます。
この頃からお笑いが好きで、エンタの神様などお笑い番組をよく家族と観ていた。この時間が楽しくて幸せでした。それからオードリーさんやはんにゃさんをテレビで観て、ファンになり、マネージャーという仕事の存在を知って興味を持つようになりました。
高2の夏から塾で受験勉強を始めると同時に、ある東大生の方にも家庭教師さんとしてお世話になることに。今までの家庭教師さんで中々心を開ける方はいなかったけど、関西弁の人懐っこい愛らしい女性という印象で、なんでも話せた。母からもめっちゃ好かれていた。笑
思い出話で1つ鮮明に覚えているのが、確か宿題をやってこなかったときのこと。なぜか私が泣き出してしまったのに、全くイライラすることなくすごく優しくしてくれて、受験生活を過ごす上で大きな心の支えになっていただいたことを覚えてます。
結果、1年半もお世話になった。本当に感謝。更に嬉しいことに、大学卒業後もたまにごはんに連れていってくれて、思い出話をしたりお互いの近況をきゃっきゃ女子会したりも。笑
塾・学校の先生、そして弓場先生のお陰で、英語だけでなく、理解して覚えて成績が上がることが楽しくなり、段々と勉強自体が好きになった。部活を引退してからは、各科目の先生と仲良くなって、放課後は大体職員室と自習室or図書室をうろうろする生活。
学校の先生には「大学生活は無敵だよ」と散々煽られて期待ばかり膨らむ。笑
高校3年間は英語特別選抜クラスで過ごし、第一希望に全学部・学科個別ともにほぼ満点、余裕で合格。といってもGMARCHレベルの大学だけど、偏差値激弱の高校ではめちゃくちゃ称えられるレベル。今までは中途半端に終わらせてしまうことばかりだったけど、受験で10kg太ったことと引き換えに、初めて得られた成功体験だった。笑
ここで、人と関わって助けを借りることで、目標達成に向けてガンガン進んでいけることを学んだのかも。
あと、「先生」という職業・教育業界が憧れのものになった。世の中の先生たち、大尊敬。
外向的に振り切った無敵の大学生。(大学1~2年/18~19歳)
自分の内側を理解できるようになりたい、と心理学を専攻。
憧れの「無敵」な大学生になり、今までの自分とは別人に生まれ変わったように、外に外に出ていく生活に。スケジュールが分刻みなのも慣れっこで、全然家にいなかった。お誘いを断るのは悪だと思っていたのか、どうにか組み込んでいつもせかせか予定を入れてた。同時に何人ともやりとりしているのは常で、興味も外側にしかなくなっていった。
まずはサークル決め。出会ったサークル・部活には片っ端から新歓や体験会に参加。ありとあらゆる人脈が出来て、色んなサークルに顔を出して知り合いの数が急に増え、きっと歴代の新入生の中で一番だったはず。笑
複数サークルに入っていても身体は1つしかないので自然と優先順位が出来ていき、最終的にはお笑いサークルがメインの生活に。同期と先輩たちがとにかく大好きで、授業の合間はサー席(サークルメンバーが集まる席)で話し、授業後の飲みに行ったり、いつも一緒にいた。
高校生のとき通っていた塾でのバイトもしつつだったので、バイトとサークル漬けの日々。バイトは受験生の進路を一緒に考えたりイベントを立てたり。このバイトで「褒め力」を身に付けた。笑
夏休みはオーストラリアの動物園にボランティアに行ったり、またまたバンクーバーに短期留学に行ったり、インタビュー団体に参加してみたり、結婚したくて料理教室に通ったり。TOEICの塾にも通わせてもらっていて、最高点は805点。MBA講座コンテストに出て、親友のおかげで優勝したりも。人生で初めて両親のふるさと、奄美大島を訪れてめちゃくちゃ感動して大好きになったのも覚えてます。
あと、世界一周に憧れたのもこの時。「なでしこvoice」という海外で活躍する女性のインタビュー団体を主催する女性の方にお会いする機会があって、その方が世界一周経験者と知り「わたしも世界一周します」と勢いで約束してしまいました。笑
→ なでしこvoiceさんHP: http://www.nadeshiko-voice.com/
あちこち飛び回って出会いに溢れた2年間でした。
休学してカナダ留学&世界一周の1年間。(20歳)
そんな多忙で楽しい日々の中、色々と考えて、結局休学を選んだ。何にも縛られない1年間。
休学前半は、ずっと憧れていたバンクーバーへの長期留学。留学先でインターンもしたかったけど、結局場所優先で選んだらこうなった。
クラスでは周りの生徒に負けないくらい発言して目立って、日本人が私しかいない会話のフリークラスにも通い詰めて、文法の間違いを恐れず積極的に発言するに皆に負けずと必死で食らいつく。ここで間違いはOKなんだと学べた!それから色々と当たり前にがんばって、中級クラスでテスト1位を取って周りから頼られたことがすごく嬉しかった。校外ではMeet upやバンクーバー音頭など地域のイベントにも積極的に参加したり、ネイティブと関わったり。
授業でこんな動画↓作ってみたり。笑(笑える黒歴史的なやつ)
▶ English CM class 作品 → https://www.youtube.com/watch?v=s_jTSL5wDlg
ところが留学して1ヵ月したころ、泣きっ面にハチすぎるどん底の日々が待ってました。笑
①前歯を折る
Meet upで参加したアルティメットサークルで、フリスビーが左前歯を直撃して、どこかに飛んでいきました。笑
②海外インターン不合格
タイ人の友達に協力してもらい、折角動画まで作ってもらって、タイでの教育インターンに応募。動画選考は受かったんですが、その次の面接でいつか世界一周をしたいと話したときに「それは夢とはいえない」と言われて面接中に号泣。笑(↓ちなみにこんな動画!)
▶Thai Hug動画 → https://www.youtube.com/watch?v=iux5-ypRfqM
③ホームステイ先を1ヶ月で家出
そのままです。笑 子どもたちは好きだったんだけど、元気な子たちにいつもマザーがいらいらしていて。ルームメイトとは家を出た後も仲良くしてもらってる!ホームステイ先を出てシェアルームに住んでから、常設のジムに通って水泳が出来るようになったので、逆に良い機会にもなりました。笑
④タピオカ飛ばし事件
授業合間にひとりでタピオカを飲んでいたら、3人のブラジル人の少年が近づいてきて「タピオカ飲んでいい?」と。全然良いよ~と渡したらタピオカをぷぷぷって。外ならまだ良かったけど校内なので。ブラジルの印象が最悪に。笑
⑤彼氏に振られる
めちゃくちゃ大好きだった彼に振られる。笑 理由はシアトルに住む男友達の家に泊まったこと。毎日書いていたブログに、事前に伝えず急にその事実を書いたらびっくりされたようで、いくら信頼があっても心配させすぎてしまったことを猛省。
泣きながらあれこれルームメイトに話したとき、「笑っちゃうくらい悪いことが起きるね笑」と言ってもらえて、逆に元気をもらえたことを覚えてます。
気分を切り替えたくて通ったダンススクールで"sexy street jazz"クラスを受けてみて、「セクシーってかわいい」って思って視野が広がったり、初めてクラブに行ってみたり(入場にパスポートが必要だったり、安全なやつ)。日本に心配させてしまう彼がいたら、きっと無かったような出会いもたくさんありました。
あと、色々あったけど異文化交流の楽しさに気付いて、日英泰韓中ポル語で基本のあいさつができるようになり、文字通り世界中に友達が出来た。カナダの冬は”Raincouver”と言われるくらい雨ばっかりなぶん、夏のイベントが超多くて、楽しみきるリソースが現地にはいくらでもあった。
語学学校の事務局にアピールしまくっていたら、念願のインターンも出来ることに。カナダのアウトドアショップ、「SportsChek」というお店での1ヶ月間のインターン。最初は裏に回されてめちゃくちゃ悔しい思いをして、気持ち悪いくらいの根性で頑張ったら、認められて表での営業にも携わらせてもらえることになったことも、めちゃくちゃ嬉しかった。笑
インターンを終え、やりきった感とまだ残りたい気持ちを持って、日本に帰国。そこからどうしても行きたかったディズニーに、ひとりで。笑(急すぎて友達が見つからなかった)初めてのひとりディズニーデビュー。と思ったら、お昼過ぎから大学の優しい同期がわざわざ来てくれて涙。笑
2週間くらい日本に滞在したあと、ずっと行きたかったタイへ。留学中、顔がタイ人っぽいからという理由でタイ人とばっかり一緒に遊んでいた。笑 バンコク・チェンマイ・プーケットを1か月間で巡って、留学の時仲良くなったタイ人カップルや、父の運転手さんにお世話になった。
バンコクではカオマンガイにはまり(毎日4食カオマンガイ)、3kgのカオマンガイ大食いチャレンジするも半分で断念。笑 プーケットでは「Soi Dog」という、飼い主がいない&傷付いた犬猫を引き取っている施設でボランティアをしたり。そこでの使命は「動物をsocializeすること」。何かに傷付いた動物が多かったので、繊細で攻撃的な子がたくさんいた。でも犬がめちゃくちゃ好きだったので、毎日噛まれて引き裂かれて少しずつボロボロに短くなっていくタイパンツも気にならず、幸せに交流させてもらった。笑
そこから日本に一時帰国し、99日間・30カ国を巡る世界一周がスタート。
書ききれないので、このあたり気になる方は大学生の時に書いたブログ(すこし下にURL載せてます)を読んでもらえたら。色々どころじゃないことが色々あった。笑
クリスマス期間だけでも、ドイツのパペット屋台のおじちゃんにうっかりキスされたり、普通は出れないクリスマスミサに出席させてもらったり、現地で会った友人のけん玉小銭稼ぎを見守ったり。笑
南米では、定番のウユニ塩湖にも感動したし、パラグアイの大使館になぜか私直筆のメモを残すことになったり、高額なリオのカーニバルのリハーサルを無料で観れちゃったり!現地の日本人に連れられて、ファべーラ(貧困層が住むカラフルな街)で美味しいアサイーを飲んだり、日本語教室で現地のお笑いについて聞いてみたり。サンパウロにあるブラジルの日系コミュニティで1週間寝泊りしたり、ハーモニカ&数独にはまったり。笑
最後の場所はハワイ。現地で母と合流して、ふたりで豪遊させてもらい、最高だった。ところが帰国した翌日、大好きだったじいじが天国に。すごく悲しかったけど、ふたりの帰国を待っていてくれたのかなと。最期にお見送り出来て本当に良かった。
そこから入社したかった芸能事務所の大きいイベントに、スタッフとしてボランティアで参加させてもらい、そこで後に入社させてもらえることになったご縁もいただいたり。そんな感じで激動の1年を過ごしました。帰国して、改めて日本のすばらしさに感謝。
▶休学期間のブログ → https://ameblo.jp/matsuaya317/
心理学研究&自己分析からの就活。(大学3~4年/21~22歳)
就活しつつ心理学研究漬けだった3年生。
大学のゼミでは、お笑いに関する心理学研究をスタート。西麻布の権八という居酒屋でアルバイトを始め、やんちゃな人たちと交流したり。あるフリーの芸人さんのサポート業務を始めたり、芸能スタッフ養成所に通い、今までの人生で一番怒られる1年間も始まった。笑
行きたい会社は決まっていたものの、進路にものすごく悩んだ。本当にこのまま進んでいって良いのか。受験生時代の反省&名言ノートを発見して、少し元気付けられた。笑
年明けすぐに、バイト先の先輩が働いている会社で四国を巡るインターンに参加させてもらった。先輩の背中を見て、好きな仕事でも成果を出すには辛いことが多いことを知ったり、保育士のバイトをしたり、化粧品検定や語彙検定の資格を取ってみたりしながら、卒論もレポートも全て提出してすっきり。
その後は2週間、奄美大島のローカルラジオ局「あまみエフエム」(NPO法人)でインターンをさせてもらった。ラジオ出演したり、イベントの手伝いをしたり、番組企画をしたり、色々経験して大苦手だった人前で自分のことを話すことを克服。沢山の親戚と知り合いに会って、第2のふるさとって再認識できてすごく嬉しかった。いつか奄美に恩返ししたい!誰にでも優しく温かくゆる~い「島対応」も教えていただいた。
四国と奄美でのインターンで本気で人のために働く人達の存在を知って、はたらくことについてすごく考えた。
小学校を上がるときくらいの夢だった保育士さんの仕事も、偶然縁があり、数週間バイトとして働くことが出来て、夢を1つ叶えた。
全く関係ない話をするとこの時好きな人がいて、2回告白しようとしたけど失敗したり、やっと伝えられたと思ったら理解されなくてうんざりしたり。笑 就活も始まって初めて第一志望群に落ちてへこんだりもしたけど、すぐ立ち直って、「特技はメロンパン」で堅めの会社に通ったことに笑ってたり、今しかできない新卒の就活を楽めたはず。笑
第一志望の会社から内定をいただいた後、日本でいちばん美味しい自家製ジンジャーエールを探しながら日本一周もした。いつかジンジャーエール図鑑を作りたい。日本でいちばん美味しかったジンジャーエールが気になった方は個人的に聞いてください。笑
憧れの芸能マネージャーとして働いた3年半。(23~26歳)
毎日が楽しくて刺激的で、すごく毎日に夢中だった。日本中もハワイとかカナダにも出張で連れていって頂けたし、上司は何回か変わったけど素晴らしい人ばかりだった。入社後からずっと変わらず担当させてもらったタレントさんも、会う時はいつも神経を全集中させていて常に緊張はあったけど、本当に良くして頂いていて、大尊敬&大好きだった。毎日何か笑えるエピソードが生まれていた。
仕事以外では、毎年夏休みを1週間程度もらってタイに行って語学学校に通ったり、当時の彼氏に「一人暮らし経験のない女性とは同棲出来ない」と言われて一人暮らしを始めたり。
入社2年目を迎えて、上司にもちゃんと1人前として見てもらえるようになり始め、後輩が出来た。新しいイベントも複数担当することになったり、担当タレントさんに背中を押されて自分でやりたい企画を本格的に考え始めるようになった。
プライベートでは、28歳までに結婚相手が見つからない場合、父からお見合い相手を紹介される約束を。笑 六本木のDJスクールでDJを習ったりも。
3年目には自分から新しいコミュニティや場所に突撃出来るようになったり、マネージャーとしてのベースを築きつつ、主体的に目標を作って一番動けていたかも。
プライベートでは糖質制限で10kg痩せて、体調を崩して、結局戻った。笑 体調を崩してから、自分の身体にもっと意識を向けるようになって、お肉を減らしたら一切風邪を引かなくなった。めちゃすごい。
仕事が手に付かなくなり、休職。(2020年末/26歳)
4年目になり、担当タレントが増えたり、社内企画の手伝いもすることに。パンデミックの影響もあり、担当タレントさんのレギュラーが続々終了、かなり厳しい状況に。在宅勤務も始まり、どんどん世の中も変わっていく。不安になって5年以内の転職を考え、自分の理想像を考え始める。今思い出すと、すごく逃げたかったのかなと。
この転職を考えている時期に、ご縁があってコーチングに出会った。「人の話を聴くこと」が好きで、大学では心理学を専攻していてカウンセラーに興味があったけど、奄美で実習にお伺いしたときに自分には無理だと思って諦めていた。だけどコーチングという「聴くこと」を活かして出来そうな職業を見つけた。「聴くこと」はマネージャーという職業上すごく重要なスキルで活かせそうだと思ったし、こんな仕事が存在するのかと衝撃だった。
コーチングとの出会いがあってから、自身の仕事に対しても常に問いを投げかけるようになった。もやもやをそのままにしながら働き続けることが苦しくなって、毎日考えて考えて、その中で担当タレントさんが増え、仕事の方向性の違いでぶつかったり、マネジメント業務も増加して、重めの出張などが重なり、彼にも振られ、文字通り仕事が手に付かなくなり、会社を休職。
休職した翌日、大学からの親友の結婚式のお祝いの言葉を任せてもらっていた。気持ちを振り絞って臨んだら、彼女が美しすぎての感動とメンタル面がぼろぼろすぎて、気持ちが溢れて涙が止まらず手紙が全然読めなくて。笑 手紙をカンペにしながら、その時のお祝いの気持ちを心のままに伝えさせてもらった。結果感動してもらえたようだったけど、自分のコンディションのせいで申し訳なさもすごくあった。でもこんな私に任せてもらえて、本当に嬉しかったし、彼女には一生幸せでいてほしいと心から祈った。
そんな日を終えて、仕事の引き継ぎをやっとのことで大体終えて、何もかも手放さざるを得なくなって、ふと「やりたかったことはなんだろう」と。
ずっとやりたかったことを1からノートに書き出した。
まずはveganの生活を始めて、veganコミュニティにも出会った。実際にコーチング体験を受けてみて、「まずはカウンセリングに行った方が良い」とのことでカウンセリングを受けた経験から、カウンセリング+コーチングどちらも出来る人になりたいと思い始めた。
それからたまに趣味で作っていたレジンアート制作、Veganのおやつ制作に本格的に取り掛かるようになった。クリスマスから鎌倉に移住したり。Goal-Bのコーチングセミナーを受講したり。
その頃にはもうすっかり自分を取り戻して、もう無敵状態になっていた。笑
年が明けて、世界一周の時に出会った友人に託されて熊野古道にお遍路さんに行き、結局途中でリタイアしてしまった。けど、それはこのままでは死ねない、やり残した使命があると思ったから。帰ってすぐにCTI基礎講座を受講して、Goal-Bコーチのコーチングを受け始めた。
▶お遍路の記事:https://note.com/matsuaya317/n/n0d4d86ad1c66
これからのキャリアに関して。(2021年~)
芸能マネージャーになるという夢を叶えたものの、急に休職することになってしまった今。復職or独立orそれ以外になるかはまだ分からないけど、どちらにしてもこれからはLife Workとして4つのキャリアを積んでいきたい。
①コーチング
人の話を聴くことでお金をもらえるなんて、幸せすぎる。人の行動をほぼ決めている無意識あたりの言語化できない部分を引き出して、その人に”本物の”使命や目標を見つけてもらって、確かな一歩を踏んで自分の人生を生きていく人を増やしたい。最近は友人の勧めでグラレコにもチャレンジし始めて、よりクライアントさんに喜んでもらえるようになった!やっぱり大好きな芸人さん達や事務所の社員さんのために、ほぼ無給で良いから会社に戻りたい。
②カウンセリング
ずっとネガティブな感情が苦手だったけど、自身の経験から、好きな人達をサポートするにはコーチングだけでは足りないと思って、今はゼロだけどカウンセリングも学んでいきたい。自己分析とか、人生の早い段階から深堀りのお手伝いがしたい。
③波のレジンアート
妹達がデザイナーや写真家など、自分自身が何かを表現してつくりだすことをしている。一方でわたしはずっと自分自身には何もなくて、マネージャーも仲介業だし、1年目の時の先輩に「誰でも出来る仕事だからね」と教えられてから、企業の一社員だし替えがきくものと思っていた。それがすごくコンプレックスだった。
レジン作品作りはわたしでも出来る趣味だと思って少し続けていて、初めて魂を込めてちゃんと作った作品をinstagramにあげたら、お会いしたこともない社長に一晩で2万円で買ってもらえた。それが本当に嬉しくて。
「気持ちを込めて作ったものが、誰かに欲しいと思ってもらえる」ことが嬉しくて、これからもやっていこうと思いました。
↓レジンで、こんな作品を作っています。
もっとあちこちの海を作りたいな。
④Veganおやつ作り
市販のおやつとか食べものもすごく美味しいけど、あまり身体にいいものは入ってないし、添加物とか乳製品が将来子どもを授かったときに悪影響を及ぼすことをあちこちで聞くようになった。
それから、牛乳や白砂糖やバターなどを一切使わない、出来るだけ天然に近いもの&素材が分かるもので作っています。大変そうだけど、一回慣れたら全然大変じゃないし、市販のものはあまり食べたいと思わなくなった。(実家でたまに食べるけど。笑)
本当はオーブンも電磁波のもので作りたくないので、いつかシェア工房みたいなところで作りたいな。
↓こんなおやつ達を作っています。
ほぼグルテンフリーにして、身体に優しい材料しか使わないと決めているので、茶色になりがちで地味だけど、もっと楽しく美味しく食べれて、洗練されたおやつを日々研究中。
どれもほとんど0からの積み上げなので、一般的に見たら無謀かもしれないけど、得意+好き要素がもりもりなので、自分の人生における最高の選択肢を厳選出来ている気分。ふふ。
長文、読んでくださって本当にありがとうございました。
▼お仕事の色々は下記URLから!
→ https://note.com/matsuaya317/n/na13a876d9850
Ayaka Matsubara / Life Coach
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