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ワレンベルグ【余 寒中見舞い】、  脳梗塞16ヶ月め

この3月の終わりに、いろいろと身近な人?の不幸のしらせ。
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はてなブログ・・「脳梗塞 ワレンベルグな日々」は、日々感じたこと
ワレンベルグのパート生活(脳梗塞の協奏曲)」は、約1ヶ月前から始まったパート就職後の変化を綴っている。
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他府県から季節が少しずれた(余寒)寒中見舞いはがきが届く、
オモテ書きの送信者の名前、住所に思い当たる人がすぐ見当たらない。
裏面の本文を見て、実家母方の従姉妹からと分かる。
その従姉妹の母は、いわば叔母さんになる、自分は年賀状を出していた。
今年の正月は年賀状も出せる状態だったが、昨年、15ヶ月前は出せてなかった、昨年の正月は脳梗塞で生死をさまよい、それどころで無かった。

従姉妹からのはがきには、母(叔母さん)が昨年3月に脳梗塞となり、発見が遅れた(一人住まいだった)ため、失語症と重度の障がいが残り、リハビリの甲斐無く、施設入所しています、と淡々と書かれていた。

想像するに、2点、知らせ
1)母は障がい者となり、自宅を空け施設に居るので、今後賀状等は不要
2)賀状の返信で代理にて娘として経緯と近況を伝えるが、気遣いは無用

ということだろう。せつない。

実家の母に電話すると、「知らなかった、どうしようも無いのだけど、、」と、いう。もうそっとしておくしかないのだという。
叔母は、母の弟(私の叔父、既に他界)の奥さんで一人暮らしをここ2年くらいしていたらしい、
母が最後に電話したのは、叔父が亡くなった後らしいのだが、
互いに未亡人になったと、その時は元気そうだったということだったが、
その後は連絡を取っていなかったとのこと、80を超えて、仕方ない。

自分とはがきの差出人の従姉妹、歳はそう変わらないが、実家と100㎞以上離れた他県、さらに自分は南端の鹿児島に居を移しているゆえ、そうそう付き合いも無い
最後に顔を合わせたのは、遥か30年前のこと、実家での私の結婚披露宴の時だ。叔父叔母もその時はもちろん若かったので、車で駆けつけてくれた。

自分が脳梗塞をやって、その二ヶ月後、叔母が脳梗塞になるというのも、奇遇というのだろうか。ただ、重度の障がいという結果に至ったのは残念だ。

その母との電話の中で、実家の隣の家のおばぁちゃん(95歳)が無くなったと聞かされた、2日前に施設で亡くなったとのこと。
まだ自分が学生の頃は、もちろん元気であり、品のいいおばあちゃん。
自分が実家で頑張っていた2−4年前には、寝たり起きたりの状況で送迎のデイサービスの車に乗り降りする姿をたまに見かけていた。
最近は、家族の認知もままならず、施設に入っていたようだ。

息子さん(自分より7,8歳上)は、難病でずっと動けない奥さんも自宅に抱えていて、たいへんだったのを知っている。
母が聞いた話では、もう疲れたと言っていたのこと、そして
今の(古い)家を取り壊して処分して奥様を施設に預けて、自分は施設近くの一人住まいのアパートにでも、、と言っているようだ。
それも、せつない。

まるでこの後、遅かれ早かれ、自分に追いかけてくるようなシナリオだなlとぼんやり。それでも、
・年賀状を続けていたから、知ることが出来たこと
・離れて暮らす母と、何だかんだ電話で話すことが出来ているから、知ることが出来たこと

(知ったからといって、悲しいだけで、自分がどうしようもないこと、だが続けているから、離れていてもどこか繋がっている)

新しい春、還暦が見えてきて、歳を重ねるということは、失うことも悲しみもいくつも通り過ぎていく、ということだろう。

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(切ない夜に、なんとなく スナックJUJU)
つづく

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