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必然性の当たり前化

今までに起きた出来事、これから起きる出来事は、全て必然である。
「生じた」のだから出来事なんだろ、そんなの当たりまえだよ、子どもの頃の僕はそう言ってる。

音楽家の親の下で育った子供は、必然的に音楽に近接した成長期を過ごす。感性の指向性は音楽に向き、たとえ、音楽にトラウマを抱えたとしても、価値感覚のメインな部分として刻まれる。音楽の授業で楽器を弾きこなす姿が周囲から評価されようとも、それは当人にとっての必然であり、相対的でない絶対的な自己評価はない。

職人の華麗絶技は職人自身にとって必然であり、更なる向上を目指す。

必然とは、普通なのかもしれない。

偉大な小説家は、その天才的な文章が普通であり、さらなる高みを目指す。さらなる高みを知覚するために自分を堕とし追い込み、それでも到達できない極地を前に絶望し、断命を選択する。

皆にとっても必然はある。心臓は普通に動いている。日々膨大な選択を処理している。ただ心臓が止まれば、ただクリティカルな誤選択をすれば、すぐに破滅に至るといえないこともない。
皆が普通だと思っていることは、実はえげつないやばい凄いコトであるといえるのではないか。

自然には必然しか存在しえないために、強力で非の打ち所がない。頬を撫でる風も、鳥の鳴く声も、穂の原の波も、黄昏の輝きも、全て必然である。必然なのに、人間からしたら超スケール過ぎて、畏怖になる。


必然性を利用すれば、何でも可能になるのではないか?

習慣化というものは、必然性を生み出すプロセスである。自分には荷が重い、不可能だと感じるような行為がいつの間にかできている。その変化の只中にあるのが習慣化なのだ。
載れなかった自転車に乗れるようになる。バック駐車が楽々ちゃんになる。タッチタイピングができるようになる。
習慣化は何通りも存在し、加えて不正解もある。だから難しい。だから考える必要がある。

ほとんどのことは習慣化できるように、ほとんどの奇跡に必然性をもたらすことができる。必然性を備えた奇跡が奇跡とみなされなくなるだけだ。天才しかいない世界では天才は存在しないように。

不可能だと判断した願望は実現しない。その棄却が習慣化の対象からの除外行為とリンクしている。


様々なことに必然性を認めることができるのが楽観主義なのか?アランの幸福論的な。


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