勉強のすヽめ

悲しい事件があった。
悲しい事件なら、昨日も今日も明日も起きている。ただ、その悲しさが僕に刺さっただけだ。

以前にも書いた気がするが、僕の趣味は空想だ。自分にとって都合のいい架空の状況を想像し、日々の慰めとするものだ。

そこでは現実の出来事には可能な限り焦点を当てない。むしろ現実からかけ離れた世界の方が気が安らぐし、これは現実にはあり得ないと割り切れる。

残念ながら、現実と想像を割り切れない人もいる。
僕は彼ら彼女らのことを笑えない。なぜなら僕が空想と現実を取り違えることはないとは絶対に言い切れないからだ。
だからといって空想することを止めることもまた不可能だ。
頭の中で何を考えるかは僕自身にもコントロールすることは大変難しく、無理にそれをすればさらに状況は悪化するからだ。

しかし、外部から取り入れる情報だけはコントロールできる。
それしかできないと言ってもいい。

強い感情を引き起こしそうなニュースやインターネット上の議論からは可能な限り距離をとることを最近心がけている。まだまだ上手くいかないが、それでも感情が世間のお気持ちの渦に飲み込まれるリスクは多少下がるだろう。

令和の時代は、「情報のフィルタリング能力」が求められる時代になると思う。そんな能力がなくても心穏やかに生きていける時代が一番いいのだが、そのような古き良き時代は終わってしまったらしい。

「学校になんて行かなくてもいい」という主張が議論を呼んだ。僕はそれには半分同意する。学校に行くことがメンタルヘルスを損ねるような強いストレスになるのならば、命を危険に晒すようなリスクの時は、行かないという選択肢があって然るべきだと思う。

しかし、勉強はした方がいいとは思う。学歴や資格の話だけではない。それはそれでとても大切だけど。

自分の心や、人生にとってメリットのある情報を選別できるようになれればいいなと思う。もしくは、それらに害をなす情報を遠ざけることができるように。

その精度を上げるための手段として、僕は勉強くらいしか思いつかない。もっと頭のいい人ならば他にも色々な手段があるんだろうけど。

勉強といっても、授業を聞いて教科書を読むことだけではないと思う。学校をサボって読んだ本が一生の友になることもあるだろう。
便所の落書きに、魂を打たれることもあるだろう。
刑務所の図書室が最高の大学となる人もいるかもしれない。
学ぶ意欲があれば、どこにいてもそこが学校になるし、何もかもが教科書になるのだと思う。

なんだか話題がとっ散らかってしまった。僕もまだまだ勉強が足りていない。多分、一生。

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