梅の実が開く
梅の実が開(ひら)くという言い方がある。花ではない。実だ。
梅干しをひとつ唐津焼などの湯呑茶碗に入れて、鉄瓶で沸騰させた湯を注ぐ。あとは壁を見ながらメトロノームの音を聴くなどして待つ。10分ほど待つ。こうするとギュッとしていた梅干しが徐々にほとびて来て丸く膨らみ、赤みは鮮やかになり、淡い香りが立つようになって、これを「梅が開(ひら)いた」「梅が咲いた」などと表現する。
この湯を温かいうちに飲むのが梅湯である。梅干しの出汁とでもいうべきか。もちろん実も最後に食べる。昨今ではクエン酸が豊富で疲労回復に効果的だという理由で、大人の女性の方にも人気があるようだ。ネットで調べるとそういった記事がいくつか出てくるが、「梅が開くまでじっと待ちましょう」と書いている記事は管見の限り見つからない。実をつぶして飲んでネ、と書いてあるものがほとんどだ。または、焼くとなんらかの栄養素が増えるとかで、ちょっと炙ってから入れてネ、と推奨している記事もある。
しかしつぶしてしまっては梅が“開か”ないし、ちょっと炙ってから湯に入れた場合はほとびて梅が“咲いた”ときに美しく見えないのではないだろうか。梅湯を飲むにあたり、備前焼などの土の色がそのまま出ているものよりも、釉薬をかけて焼いた湯呑茶碗のほうが推奨されるのは、湯呑の中の梅が“咲く”行程を鑑賞することが梅湯の最大の眼目だからであって、そういう意味でいえば、たとえ身体によかろうと、炙った梅を潰してお湯に入れたものはぼくにとっては梅湯とは呼べないのである。
さてこの梅湯は祖母が好きな飲み物のひとつだ。祖母はお茶でも珈琲でも葛湯でも、とにかく温かい飲み物はなんでも好きな人である。彼女の家に行くと茶葉やら珈琲豆やらがいくつか並んでおり、素人なりにこだわりがあるとみられる。特に豆は自分であれこれ混ぜてから全自動式豆挽き機に入れて、今日の味は酸味が強すぎるだの、コクがなくて飲んでいる気がしないだのと文句をいいながら飲むのが好きなようだ。たまによいブレンドを見つけては満足げにしている。
そんな人の孫にもかかわらず、ぼくは珈琲の味がまったくわからないし、牛乳を入れないと飲めない。仕事でやむなくおじさんたちと会う時、先方がなんの事前質問もなくいきなり珈琲を持ってくる会社が多いだけに、「珈琲とお茶はどちらがよろしいですか?」と聞いてくださる会社はまことにありがたい。こちとらブラックが飲めないのだ。あとフレッシュを入れた珈琲も駄目なのだ。すいませんね、あ、こちらには茶葉がないのですか。それでしたらカフェオレを、もしエスプレッソマシンがあるならカプチーノをお願いできますか。牛乳もない。おやおや。では白湯をください。白湯です。
それで話は梅湯である。祖母の家で、夜にちょっと温かいものが飲みたいが珈琲やお茶はカフェインが含まれるので避けたい、というとき、彼女は梅湯をぼくに供する。このときばかりは湯を沸かすにあたって鉄瓶を使う。鉄分がどうだとかいっていた気がする。
幼かったころ、梅湯を見た時は「いやお湯やんꉂ ( ˆᴗˆ ) ドッ!」と思ったものだが、今となっては自分でも飲んでいる。さすがにひとり暮らしの部屋に鉄瓶はないので湯はポットで沸かす。
はじめて梅湯を供された時、すぐに飲むなといわれたので、だらだらと喋りながら待っていると、祖母が「あんた、もうそれ開いたんちゃうのん」というので、
「開いたってなにがや」「梅や」「開く?」「湯にいれた梅干しがな、こう、まあるくなってくるやろ」「うん」「それをな、梅の実が開くっていう言い方すんねや」と祖母が自分の梅湯をすすりつつ教えた。
「そんな雅な言い回しすんのん」
「あれ、咲く、やったかな……まあそないいうねや」
「はあ、おもろい感性やな、冬の朝とか春の夜に飲んだらええかもな」
「夏バテにもええんやで、一年中飲めるし」
「でもせっかく梅咲かすんやったら冬とか春やないと美しくないんちゃうん?」
「そらあんた、それはそうやわ」
「せやろ」とぼくは自分の梅湯を飲んだ。
たしかに梅が“咲いて”いるのを感じる。といってもかすかに梅が香るだけで、所詮は塩気のあるただのお湯なのだが「梅が開く」といわれるとそれだけで春の気配を感じるのだから人というのは現金なものだ。
「これ、あんぱんと一緒に食べたらええやろな」というと祖母がすかさず「あんぱんの上に乗ってんのは梅やなくて桜やろ、塩漬けの」とツッコむので、「小豆やのうて、うぐいすあんのやつや」と返したところ、「そらあんた、狙いすぎて寒いわ」と評された(“梅に鶯”)。
その祖母が先日電話を鳴らしてきた。外出自粛を要請されるという不可思議な状況下で、退屈なご様子だ(当該地域は5月14日に緊急事態宣言を解除されたが、彼女は「たとえ田舎であろうと、感染の第二波が来たら、私は耐えられない」という理由から、ほとんど外出していない)。それなりに老いていることもあり、これを機に人生の身仕舞いをしようと、手元の衣服や食器などを処分しているのだという。しかし体力が衰え、以前は1時間で出来ていた作業も2-3時間かかるようになってしまい、もうしんどい、とこぼしていた。
さすがに聞いたぼくも神妙な面持ちになった。生を享けた我々は必ず死ぬと頭では分かっていても、祖母が確実に老いており、そしていずれ死ぬという現実を受け止めきれないでいる。が、彼女は、内心ではどうか知らないが、あたかも自らの死をとっくに受け容れているかのようにふるまう。何しろ、小説も読まなければ映画も観ず、テレビにもラジオにも興味がないが、花と茶と舞だけにはご執心という、室町時代の住人のような女性(にょしょう)なのだ。色々と達観しているところがあるのであろう。
茶器や古い着物などもそれなりとあったようなのだが、ほとんど処分したというので、それを聞いたぼくがメルカリで売ればそこそこの値が付いたはずなのにと残念がると、はあ、そんなもんかね、と薄い反応だった。平素から「非課税で10兆円ほしい」と言っている孫と違って、彼女は金にも無頓着なのである。
しかしあの茶碗は残している、という。どの茶碗だと訊くと、「ほら、あの白い……春先とかに使とたやつや、梅枝の……」というので、「絵唐津か?」「そや」「あの絵唐津まだあったんか」「そら割れてへんさかいな」「ぼくが梅湯飲むときに出してくれたやつやろ」「そやそや」というやり取りをした。さすが老人は昔のことをよく覚えている。
何の話だっけ。梅か。春を告げる梅も、いずれは花も散るし木も朽ちていく。祖母の老いも当然のことなのだ。彼女とぼくは別の人格を持った個人同士なので、仮に彼女が「いやもうちょっとそろそろ生きるのだるいわ」と思ったとした場合、痛みや飽きに耐えながら長らえるという選択を強いることはできない。強いることはできないが、しかしそれとは別の位相の問題として、祖母には長寿であってほしいと願うので、当座は「その絵唐津で今日は梅湯飲みや、ぼくも東京で飲むよってな、マグカップやけど」と言いおくくらいのことは、した。
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