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あまいわな

 英幸にとって、治という男は、永遠に手に入らないものの象徴のようだった。

 治のことが一番大切、ずっと一緒にいたい、治をひとりにはしないから、そばにいさせて───すきだよ。
 英幸が毎日まいにち言葉を変えて伝えるそれらを何ひとつ受けとらず、あいまいに笑ってやり過ごすだけだった治。
 高校の頃から親友同士だった彼らは、そのままの関係を維持したまま、同じ大学に進学した。
 治にとって英幸はどこまでいっても親友だった。そばにいて欲しいと思うけれど、それはきっと英幸の望んでいるのと同じ想いではない。だからあえて英幸から伝えられる言葉を拒まず、けれどもまた受け取りもせずに、ずっとやり過ごしていた。

 英幸が治に想いを伝え始めたのは、ちょうど二週間前のことだった。
 突然なんの前触れもなく、今日の昼に食べたいものを呟くような気軽さで、修のことが好きだと告げた英幸。
 英幸の振る舞いに言葉を失って、ただじっと英幸を見つめることしかできなかった治。その治に向かって、だからずっと一緒にいたい、と笑った英幸。
 そこから毎日、英幸は治に、自分の想いを伝え続けてきた。

 想いは伝えるものの、決して返答を急かすことはしない英幸。
 治はそんな英幸を見て、時が経てば英幸もこのやりとりが不毛だと気づいて、口にすることすらなくなるだろうと、考えていた。
 英幸のことは人として気に入っていた治だったが、しかし隣に特別な存在として置いておくには、彼にとって英幸はあまりに見た目もできも、平凡すぎた。せめて誰もが目を奪われる精悍さや清廉さを持っていたならば、あるいは考えてもよかったかもしれないとさえ思っていた治は、だからこそ英幸のその想いを受け入れるつもりなど毛頭なかった。

 すきだよ、治。治に向かって、穏やかな声で想いを告げる英幸。目の前で何も答えない治が、自分のことをこんな風に思っているとは、露とも知らない英幸。
 想いが伝わればいい。伝わらなくとも、自分が治を想っていたことさえ、知ってもらえればいい。
 治の反応から、自分の望む答えが得られそうにないとわかっていた英幸は、だからあえて答えを望まずにただただ伝えるだけで満足することにした。
 目の前に立つ治に向かって、すきだよ、と笑う英幸。そんな英幸の向こう側から歩いてくる友人たちの姿を見つけて、反射的に英幸の口元を手で押さえた治。
 口を押さえられて目をパチパチと瞬かせる英幸に、治は小さく零す。その言葉を拾った英幸の瞳が大きく見開かれ、そして鋭い痛みを受けたみたいに、くしゃりと歪められる。
 静かにしろよ、俺まで同じだと思われるだろ。
 自分の口元を覆う手が外されたあと、目の前に立つ治に視線を向けた英幸。なぜだかぼんやりとしか映せない治の姿に目を瞬かせた英幸の、その視界に映り込み、こちらをまっすぐに見つめて薄い笑みを刷くひとりの男。
 ちづる。
 英幸の唇が音もなく、ひとつの言葉をかたどる。
 
 治に対してずっと不毛な想いを抱え続けてきた英幸に、自分にしたら?と首をかしげた男──千鶴は、治の友人であり、また英幸の親友でもあった。
 俺なら絶対にゆきを悲しませたりしない。ひとりにもしない。ずっと一緒にいて、のんびり楽しいこといっぱいしよう。
 今まであだ名のひとつもついたことのない英幸を、ただひとりだけ"ゆき"と呼ぶ千鶴は、誰もが振り返る整った顔を、英幸にだけ向け、伸ばした手で英幸の頬を撫でながら、甘い言葉をふりかけた。
 その千鶴の想いに、俺は治が好きだからと首を横に振った英幸。
 気持ちは嬉しいけど、ごめん。千鶴に向かって頭を下げた英幸に、けれども千鶴は甘いままの声で、だったら俺と賭けをしようと囁く。
 俺とゆきと、どっちの想いが先に届くか。ゆきのほうが早かったら、俺は諦める。けれど俺の方が早かったら、ゆきは俺のものになる。どう?英幸の肩にそっと手を置いた千鶴は、一歩英幸の方へ近づき、ほんのわずかに腰をかがめて、近づいた耳元にあまい毒を流し込む。
 俺を諦めさせたかったら、治をゆきのものにすればいい。その毒に浮かされた英幸は、一生告げるつもりのなかった想いを口にし、そしてその想いを受け取るつもりのない治との距離を生じさせしまう。空回りする治との関係に心を痛め、けれどもそうとは気づかれぬよう気丈に振る舞い続ける英幸に、甘い毒を流し込み続ける千鶴。
 英幸にとって今の千鶴が置かれている立場は、治と英幸の関係でいえば、自分と同じ想いを伝える側の立場だ。更に言えばどちらも想いを受け取ってもらえないのに、不毛にも伝え続けているところまでよく似ている。
 治にとっての英幸と、英幸にとっての千鶴。治には受け入れてもらえなかった自分の姿が、なぜだか自分自身に拒まれた千鶴の姿と重なる英幸は、だからこそ千鶴を強く突き放すことができないでいた。

 「ゆき」
 自分の失言に気づき、英幸にかける言葉を探していた治の耳に、聞き慣れた音が響く。その声の持ち主を治が思い浮かべるより早く、治の目の前にいた英幸が、千鶴、と微かな声をこぼし、そして治の横を通り過ぎてその声の持ち主の元へと駆け寄る。
 千鶴。治の喉から溢れた音を拾い上げて、唇の端をかすかに吊り上げた男───千鶴は、駆け寄ってきた英幸を自分の腕の中に抱き込む。
 「ゆき、あの賭けまだ続ける?」
 ただでさえ目を惹く男が、冴えない男を腕に抱いて甘い囁きを零すその光景に、周囲の視線が釘付けになっている。
 俺まで同じだと思われるだろ。治が零した言葉に傷ついた英幸は、自分と同じ立場に立つ千鶴の腕を振り払えば、千鶴が───自分が傷つくことになるとわかっているから、拒むことができない。
 それに
 「俺ならずっと一緒にいてあげる。だから俺を選んで?」
 甘ったるい言葉で英幸を縛る千鶴の腕が、あまりに心地よすぎて、だから───
 「ちづるにする」
 英幸はこの腕の中から逃れることが、できなくなってしまった。