カギカッコ末尾の句点を打つ

 小説の会話文などにおいて、カギカッコ末尾の句点を打つのがどうかというのは、たまに話題になる。
 多くの人はなんとも思っていない。私もさほど重要だとは思っていない。ただ、たまに話題になったとき、自分のことについて考える。何度か考えると、考えを整理したくなってくる。そのために、この記事を書く。

 私は、実のところこれからの実作においてはカギカッコの末尾に句点を打とうと思っている。理由は、大きく分けて3つである。

1 整合性が良い
2 わずかに表現できることが多い
3 記法として認められていないわけでもない

 それぞれについて、以下述べていく。

整合性が良い


 ごく素朴な感覚として、「!」や「?」などの末尾の符号は打つのに「。」は打たないというのは、非対称的だ。
 教科書においては、末尾の句点は打つものと教えられる。英語などでも、ピリオドは省略されない。自然だと思う。
 歴史的には、写植の関係で句点の意味はカギカッコ閉じが兼ねることとなったという。
 60年代の記者ハンドブックに、末尾の句点を省略する旨の記述があるそうだ。新聞というのは文の体裁を多くの記者が揃えなければならないから、こういう方法で統一が為される。その方法が、出版界に広まったという指摘もある。
 だが、それはそれだけの、便宜的な話だ。言ってみれば、出版業の特殊事情であって、意味論的な合理性があってのことではない。今となっては写植の問題も解決しているのだから、遠慮無く句点を打ってしまおう。

 整合性の悪さが際立つ場合というのは、たまにある。
 たとえば、次のような文。
ア 「お前」と言うのに私は反応した。
イ 「お前。」と言うのに私は反応した。
 鍵括弧内が一語であるような場合、いわゆる発声であるのか、語を引いたのかわからない。これらの例であれば、もし、前者の文がカギカッコに句点を打たない人に用いられた場合、発言のなかの一語である「お前」なのか、完結した発言としての「お前。」なのかわからない。
 カギカッコ閉じが句点を兼ねるというのは、無理があるのだ。カギカッコが句点の無いものを引くことがあるのだから。

 ほかに、次のようなケースもある。外文学に多い。
ア 「まあ、いずれにしても」とサリーは言った。「こんなところ、早く出て行きたいわね」
イ 「まあ、いずれにしても」とサリーは言った。「こんなところ、早く出て行きたいわね。」
 2つ目の文では、「いずれにしても」のほうには句点が無い。当たり前で、「サリーは言った」が挿入されているだけで、「いずれにしても」は次の「早く出て行きたい」を修飾しているのだ。だから、「いずれにしても」で文が終わっては困るのである。
 つまり、次の文は当然全く異なる。
ウ 「まあ、いずれにしても。」とサリーは言った。「こんなところ、早く出て行きたいわね。」
 そうであるので、例アでは、1つ目のカギカッコはもともと句点が無いが、2つ目のカギカッコは句点が省略されているというおかしなことになる。しかもこのことは、末尾まで読まないとわからない。文章によっては、例ウのようなパターンもありうるからだ。
(こういう問題があるからか、外文学においてはカギカッコ末尾の句点が省略されない場合が多いような気がする)

わずかに表現できることが多い


 句点を打つことを標準としていると、若干ではあるが表現の幅が広がる。
 それは、前の段において「まあ、いずれにしても。」という文を出したようなケースもある。他にも、次のようなケースでは末尾に句点が打たれるほうが良いと考える。
 「だって、ぼく、」
 「だってじゃない。」
 読点でカギカッコの末尾を締めるという表現法の効果は、対置されるものが句点であるほうがはっきりするのではないだろうか。カギカッコ閉じが句点を兼ねるなどというが、明示的に書かれることによってこそ表現されることもあるのだ。

記法として認められていないわけでもない


 もちろん、小学校の教科書は句点を打つことを薦めているし、谷崎潤一郎だって句点を打っていた。少なくとも、伝統的な記法である。
 現在の出版物においても、句点が打たれるケースはまあまあある。青い鳥文庫、偕成社文庫は句点ありを標準としているようだ。平野啓一郎、よしもとばなな、初期の綿矢りさなど、少数ではあるが句点を打つ作家がいる。また、岩波の多くの外文学――パッと確認したのは、レ・ミゼラブル、車輪の下、ドン・キホーテ、ブッテンブローク家の人々――も、末尾の句点が打たれているようだ。
 句点を略す方法は、せいぜい出版界の流行といったところである。記者ハンドブックであったり、小説指南サイトであったりが尤もらしくそれを推薦するために、さも正書法のような顔をしていて、息苦しいが、そんなものではない。
 句点を打ちたい人は打てば良いし、打ちたくない人は打たなければ良いし、それぞれに効果はあるだろう。
 句点を打つ方法を持ち上げてきたが、以下では句点を打たない方法の長所にも触れてみる。

句点無しのよいところ


 第1に、なじみが深い。
 なんだかんだ言っても多くの書で採用されているので、細かいところまで気づく人は、句点ありの文章について、普通と違うと感じるかもしれない。
 とはいえ、もちろんそれによって読めないとか苦痛だとかいう事象はほとんど生じないだろう。そういうことを言うのは、書き方本にかぶれて細かいことばかりを気にしたり、いばりちらしたかったりするアマチュア作家くらいで、ほとんどの読者は気づいてもおもしろく読んでくれる。それに、そもそも気づかない。
 第2に、文句を言われないというのも、少し良いことかもしれない。
 うるさいアマチュア作家に文句を言われるのはわずかに苦痛なので、それを先んじて避けられるのは、メリットと言えなくもない。
 もう少し真面目な話として、句点ありで揃えているレーベルについて先に触れたが、レーベルによっては句点無しで揃えているものもあるのかもしれない。Webで拾われ、そういうところからいざ出版というときには、多くの改稿をおこなうことになる。すると、やはり文章の味が変わってしまうだろう。それを避ける意味はあるかもしれない。
 第3に、私はこれこそ重要だと思っているのだけど、句点無しのほうが少しあっさりする。
 句点とかカギカッコとかいうのは、いわゆる音を持つ文字ではない、かざりみたいなものだ。そういうものの割合が増えることは、いくらか文章に煩わしい、重苦しい印象を与えるかもしれない。もちろん、そのほうが良い場合もあるので一概にはいえないけれど、あっさり読めることを旨とする文学(たとえばライトノベル)では、句点を打たない側に傾くのかもしれない。なるほどライトノベルと呼ばれるもので、句点を打つものを私は見たことが無い。考えてみると、先に挙げた三名(平野、綿矢、よしもと)は、皆純文学作家だ。手法というものは、やはり文学性を反映しているのかもしれない。

 上述のようなことを総合して、私は句点ありを採用していくことにした。今後も楽しい執筆ライフを送りたいところだが、最近はスランプなのでなんともいえない。句点の話をしている場合ではない。句点だけでは小説は書けない。

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