見出し画像

パリスの審判:8.トロイア戦争へ(完)

17世紀の画家ルーベンスの「パリスの審判」から始めた、このパリスの審判シリーズも今回の投稿で終わりです。

スパルタ王メネラオスの怒り

パリスにとって「世界一の美女ヘレネ」を娶ることは、女神アフロディーテとの約束でしたから、「ヘレネの誘拐」はごく当然の成り行きでした。ある意味、既定路線です。

しかし、王妃をトロイアの王子に奪われたスパルタ王としては、それは、あってはならないことです。論外の出来事でした。

歓待していたトロイアの王子が、自分が国を留守にしていた間に王妃と恋に陥り、連れ去るなんてことは、まさに言語道断、断じて許すことのできないことでした。

ミュケナイ王アガメムノンへの泣きつき

スパルタ王メネラオスは、当時、ギリシア世界で一番重きをなしていたミュケナイ王国の王アガメムノンに、トロイアの王子からヘレネを取り戻してくれるように泣きつきます。

ミュケナイ王国の王アガメムノンは、スパルタ王メネラオスの実兄だったからです。

弟の要請を受けて、アガメムノンは全ギリシアに布告を出し、トロイア遠征のために全ギリシア軍の動員をかけるのです。

ヘレネの誘拐は、国家間の重大問題なのか

そもそもの話ですが、ある国の王妃が若いボーイフレンドと駆け落ち同然に国を離れたとします。その時に、その王妃を奪い返すために、自国の軍隊のみならず、連合国全体の軍隊を総動員して、王妃を「奪った」国に戦争を仕掛けるのは、普通のことなのでしょうか。国際法上正当な行為なのでしょうか。

ヘレネの夫のスパルタ王メネラオスの怒りは、よく分かります。
だからといって、自分の妃を奪い返すために、他国に戦争を仕掛けるというのは、どうも話が違うと思います。正当かどうかというと、それは、不当な行為のように思えます。

そもそも王妃ヘレネは、アフロディーテのはからいによって、トロイアの王子パリスと恋に陥ったのです。

スパルタ王メネラオスにとって論外のことだとしても、それは、パリスの審判の帰結として、ヘレネがパリスと恋に陥ることは約束されたことでした。だから、自らの意思で家庭を捨て、国を捨てたのです。

それは「9歳になるヘルミオネーを後に残し、大部分の財宝を船に積み込み」(アポロドーロス『ギリシア神話』)、船出したとあることからも明らかだと思います。

よって、これは、パリスによる「ヘレネの誘拐」ではなくて、ヘレネの覚悟の駆け落ちとしか思えません。つまり、ヘレネの出奔しゅっぽんは、トロイアの王子とスパルタの王妃の色恋であり、不倫関係の末の出来事に過ぎないように思えるのです。

スパルタ王は、心変わりをした王妃ヘレネに捨てられたと解釈するのが妥当なような気がします。であれば、これは、夫婦間の問題、個人的な問題です。

夫の立場からすれば、浮気をした妻に対してどう対応するかだけの問題のはずです。離婚を宣告するか、戻って来たら恕すかの、どちらかだと思います。

つまり、「ヘレネの誘拐」は、国家の重大事ではなくて、夫婦関係の問題にすぎないということです。あくまでもスパルタ国王夫妻の個人的な問題にすぎません。トロイアとスパルタとの国家間の問題ではないし、いわんやトロイア対全ギリシアの問題ではないことは火を見るより明らかだと思います。

ヘレネを取り戻すには

今風に言えば、奥さんが若い男性と不倫の末に家族を捨てて家出をしたとして、そこに、警察が出てくるのはおかしな話です。いわんや暴力を使って家出した妻を取り戻そうとするのは、明らかにDV体質の男のやることですよね。

夫婦関係の問題は、暴力(DV)が介在していないのであれば、民事不介入の原則が適用されます。夫婦の話し合いで、あるいは、諦めて離婚という形での解決しかないのではないでしょうか。

人の心の問題に国家を挙げて頑張ったところで、それは、明らかに無理筋というものです。

いったん人の心が離れたら、もう戻らないように思います。強制によって人の心がどうこうなるようなものではないと思うのですが、いかがでしょうか。

トロイア戦争へ

スパルタ王メネラオスが、妻のヘレネを取り戻したいのであれば、個人的に行うべきでしょう。そこに国家を巻き込むのは、まさに公私混同です。家出した妻を暴力によって連れ戻そうとするDV男やストーカー男と同じ行為に見えて仕方がありません。

無理を通せば道理が引っ込みます。

その無理を通したのが、トロイア戦争です。

ヘレネ奪還が戦争目的ですが、果たしてそれが大義でしょうか。そんなのは大義でも何でもないと思います。明らかに大義なき戦争です。
単なる寝取られ男の泣訴きゅうそに、兄のアガメムノンが乗った形です。

アガメムノンは、当時のギリシア世界の雄であったミュケナイ王国の国王でした。アガメムノンには、弟の訴えを口実に別の思惑があったと考えるのが自然です。

世界一の美女とうたわれていたスパルタの王女ヘレネには、求婚者がギリシア中からたくさん押し寄せていました。その求婚者たちには、ヘレネに何かあったら必ず手助けをするという一札いっさつをとっていました。それを梃子てこに、アガメムノンは、トロイア遠征のために全ギリシア軍に号令をかけるのです。

トロイアは、東西の交易の場として栄え、繁栄を謳歌おうかしていました。それは、ミュケナイにとっては非常に魅力的だったはずです。そのトロイアの富を狙っての遠征が、アガメムノンの本来の目的だっと思われます。遠征目的を隠すための口実として、ヘレネ奪還が使われたというのが、本当のところのような気がします。

結びに代えて

ホメロスの『イリアス』などによれば、このトロイア遠征、いわゆるトロイア戦争は、10年の長きにわたって続けられ、たくさんの犠牲者を出しました。トロイアの英雄ヘクトールも、ギリシアの英雄アキレウスもこの戦いで命を落とします。

トロイアの炎上によって決着はつくのですが、勝利者であるアガメムノンでさえも、凱旋帰国の夜に、妃と通じた従兄弟のアイギストスによって殺されます。アテナイ古典時代の悲劇作家アイスキュロスの『アガムノーン』によれば、妃のクリュタイムネストラによって殺されるのです。愛娘まなむすめ仇討あだうちとして。

アガメムノンと妃のクリュタイムネストラとの物語、そして、二人の間の子どもの叔父のアイギストスと母クリュタイムネストラへの復讐劇については、いつか書きたいと思っています。

ルーベンスの絵画「パリスの審判」の謎解きから始まった長い物語に最後までつきあっていただき、本当に感謝しています。

有難うございました。これにて一件落着としたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?