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演劇の「力」はどこから来るのか(「ハラスメント量的調査白書2024 寄稿文)

機会をいただき、表現の現場調査団さんによる「ハラスメント量的調査白書2024」に寄稿をさせていただきました。
非常に意義のある調査で、この調査結果を真摯に受け止め、舞台芸術業界に関わる皆さんと一緒に、ぜひ環境整備に取り組んでいきたいと強く思います。
表現の現場調査団さんにも許可をいただいたので、noteにもアップします。


演劇の「力」はどこから来るのか

表現の現場調査団による「ハラスメント白書2024」の結果を見て改めて思ったのは、創造現場でのハラスメントの問題は、①人権意識の欠如と②未整備の労働環境という2つの大きな要因によって悪化しているということである。

人権意識の欠如に関しては、「作品のため」という大義名分のもと、不適切な行為が許容されていることが顕著である。創造現場で誰かが傷ついても、必要なケアが施されることなく、「作品のために必要」とか「演者なら(スタッフなら)このくらい耐えるのは当然」といった考えがまかり通り、乗り越えられない場合は個人の資質や適性が問題だと矮小化され、自己責任として切り捨てられてきた。このような環境では、ハラスメントが原因でキャリアを断念する人も出てくるが、周囲はこれを「正当な競争のシステム」と誤解してしまう。「苦労は成功への通過儀礼」という思想が支配的であり(成功者の証言は生存者バイアスに基づくもので、業界を去った多くの人々を無視してはならない)、過酷かつ懲罰的な行為や過度の要求、すなわちハラスメントすらも成功への「試練」として受け入れられ、それを乗り越えることが演者として大成するための不可欠な条件とされてきたのではないか。

長きに渡ってハラスメントが「当然のもの」とされてきた業界では、新入りや若手は業界の古参者から「これがここでのやり方だ」「演劇業界はどこもこう」「これが受け入れられないならやっていけない」と言われることになる。結果として、ハラスメントを受けている側が、自己の認識を疑い、不適切な扱いを受け入れざるを得なくなってしまう。そうやって感覚を麻痺させてしまった人達が、また次の世代に(意識的にせよ、無意識にせよ)加害の連鎖を起こしてきたのではないだろうか。

また、「役作り(キャリア)に必要」と権力者(例えば、演出家やプロデューサーや自分よりも経験豊富な演者)に言われてしまえば、演者は通常では受け入れがたい要求も受け入れなくてはいけない圧力をかけられることになる。これを拒否すると、プロフェッショナルではない、または役や作品に対する献身が足りないと見なされるリスクがあるためだ。この圧力は、創造的な環境の中での個人の権利と尊厳を損なうことに繋がる

特に演劇業界のように競争が激しい業界では、一つの役を失うことがキャリア全体に大きな影響を与える可能性がある。そのため、演者は自らの将来のために不適切な要求も受け入れざるをえず、この構造が、権力者がさらにその権力を乱用することを容易にしてきた。

それは労働環境に対しても同じである。特に演者や技術スタッフなどはフリーランスが多く、権力者による不当な扱いに晒されやすい。不当な扱いを受け、それに対応する際にも、自分自身で対応策を考え、交渉を進める必要があり、この過程でさらに精神的、財政的な負担を強いられることもある。問題の解決が適切に進まない場合には、仕事を進行しながら、ストレスや不安を抱え続けることになってしまう。

近年は文化庁の旗振りにより、演劇業界でも契約に対しての意識が高まって来た事を感じるが、それでも、事前に条件提示がない、契約書がない、長時間労働・低賃金の不公正な労働条件や、途中で事前に聞いていなかった仕事が増えるなど、そもそも「ビジネス」としての意識が低い。芸術は内面的な表現や感情、社会的なメッセージを伝える手段であり、それを金銭や時間的なコスト感覚と結びつけることでその純粋性や芸術性が損なわれるというような、そのことを話すこと自体がタブーのような空気もまだ確かに存在する。

また、演劇というメディアが本質的に持つ暴力性への自覚が重要であると考える。演劇は古代ギリシャ時代から社会に影響を与え続けてきた表現の形態であり、生身の人間が観客と場所、時間を共有することから生じるエネルギーは計り知れない。この集団のエネルギーがポジティブに作用すれば、観客の経験や感情と共鳴し、歴史的教訓や文化的差異に気付かせるきっかけを提供し、関わる者、あるいは観客の人生を一変させる可能性すらある。それが「いま、ここ」で生じるライブの演劇の力である。

演劇に力があることを信じているのであればこそ、このエネルギーが暴走しないよう、二重三重の安全対策を講じる必要がある。これまで多くの演劇現場が、このエネルギーに対して無自覚で、無対策のまま、個人の良識やふるまいに依存してきたのではないか。演劇創造の構造から発生する様々なエネルギーは、ネガティブに働けば、観客や関わる人々を傷つけ、二度と演劇に関われなくなるほど追い込んでしまうリスクもある。明確なガイドラインやポリシーが未整備で、研修や相談窓口もなく、ハラスメントや性加害の問題に対処するための枠組みが不十分なまま作品作りを行うことは、エネルギー制御の安全装置がない状態で大きなエネルギーを扱うことに等しい。いつ暴走してもおかしくはないのだ。
演劇に関わるものは、この演劇の「力」を再度認識する必要がある。

また、演劇の力は集団の力であり、権力者の力ではない。権力者以外の人間を権力者の「駒」にしてはならない。演劇が持つ集団的な力は、協働から生まれる。その過程では、すべての関わる人が互いに尊重し合い、個々の貢献を認め合うことが不可欠である。権力者が、個人の意見や感性を封じ、自らの意志を一方的に押し付けることは、演劇本来の力を損なう行為だ。演劇は多様な才能や感性が調和して初めて、その真の力を発揮する。

演劇における権力構造の見直しは、公正で平等な創作活動への道を開く。
権力の集中を防ぐことは、権力者とされる人を、過度のプレッシャーや責任から守ることでもある。権力者に強い圧力がかかり、精神的に追い込む構造になっていないだろうか。その圧力がさらに弱い立場へのハラスメントに繋がってしまう可能性がある。創造環境で、どこか局地的に圧力が高まってしまっているところはないか、その構造的な視点を持つことが重要だ。

共に挑戦、共創し、個人を尊重し合える創作環境の実現は、公演の質を高めるだけではなく、社会全体に対する演劇の影響をより肯定的で持続可能なものにすることにもつながる

素晴らしい作品の裏で、演者やスタッフの人権が侵害されているのであれば、それは観客への裏切り行為である。創作プロセスの裏側で誰かが傷つき、泣いている作品を観客が見たいと思うはずがない。観客は、自分が感動した作品、自分の推しが出ている作品、自分が応援している団体の作品が、すべての関係者にとって公正で、尊厳が守られた環境で作られていることを期待しているのだから。誰もこの搾取と加害の構造に加担したくはないのだから。

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