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誰かを愛することができなければ、自分自身も愛することはできないのか

「僕は誰かを嫌ったり、憎んだり、恨んだりして生きていくことに疲れたんです。誰をも愛せないで生きていくことにも疲れました。僕には一人の友達もいない。ただの一人もです。そしてなによりも、自分自身を愛することすらできない。なぜ自分自身を愛することができないのか? それは他者を愛することができないからです。人は誰かを愛することによって、そして誰かからか愛されることによって、それらの行為を通じて自分自身を愛する方法を知るのです。僕の言っていることはわかりますか? 誰かを愛することもできないのに、自分を正しく愛することなんてできません。いや、それがあなたのせいだと言っているわけじゃない。考えてみれば、あなただってそういう被害者の一人なのかもしれない。あなただっておそらく、自分自身の愛し方をよく知らないはずだ。違いますか?」

村上春樹『1Q84 Book2<7月-9月>』新潮社、2009年、178ページ


村上春樹の長編小説「1Q84」のなかで、主人公の天吾が療養施設に入所する父親と2年ぶりに再会する場面がある。少年時代から父とは折り合いが良くないと感じていた天吾は、認知症をわずらい最初誰だか見分けさえつかなかった父親にたいしてこれまで抱えていた思いを(違和感を)少しあらたまった口調で話す。

私(筆者)はしばらくそこにある問いをあれこれ考える。

誰かを愛することができなければ、自分自身も愛することができないのか。それはつまり、自分自身を愛することができれば、ほかの誰かを愛することができる、ということなのだろうか。


心の深い部分に関して、自分以外の人のことについてうまく話せそうにないので、自分自身について考えてみようと思う。

私は私自身を愛しているかと言えば、おそらくは愛している。まずもって「愛する」の言葉の響きに照れてしまってうまく捉えきれないけれど「自分自身を肯定する」ということに関して、私は私自身の最良の味方である。なぜなら、私は自分に起きていることはすべて正しいと思っている人だから。

たとえば、取得したかった資格試験に不合格になってしまったら「もっと勉強しなさいってことだな」と解釈するし、片想いの好きな人に振られてしまっても「べつの誰と結ばれなさいってことだな」と受け止める。仕事でなかなかのトラブルに見舞われても「◯◯がああなってたら事態は最悪に向かってた」と、口ぐせはいつも「不幸中の幸い」だし、私が20代の頃に父が病気をわずらい他界したときも悲しい気持ちとはべつに「父親と死別しても自分が大丈夫なだけ精神的に成長したからこそこういう物事が巡ってきたんだな」と決して強がりでなく、心持ちはつねに「人間万事塞翁が馬」である。

そういう意味合いで、私はいつも自分自身を肯定し、愛している、と思う。実際の実力より自己評価が高すぎて(また自分に期待しすぎて)がっかりすることもままあるけれど、自分が、自分という人間がそんなに嫌いじゃない。

そして「1Q84」の天吾が考えているように、誰かを愛することによって、また誰かから愛されることによって自分自身を愛する方法を知るのだとしたら、私は両親から十分に愛情を受けて育ててもらえているがゆえに自分自身を愛しているんだと思う。

両親は2人ともほぼほぼ終盤の戦中生まれだから、父親はときたまキャッチボールや釣りや将棋は一緒にしてくれたけど、躾(しつけ)のほとんどは母親から受けてきた。子育ての中心はいつも母であり、過ごした時間の多くは母とだったし、「お父さんよりもお母さんのほうが好きだ」と子供の頃公言するくらいで、自営業でだいたい家にいたはずの父親より母親の存在感が上回っていた。

両親にたいしてもっとも感謝しなければならないことの一つは、子供である私のことを基本的には信じてくれていたことだ。「ダメだ」や「無理だ」のような否定的な言葉遣いで子育てはしてくれなかった。先天的な性格によるところもあるとは思うけれど、そんな両親の態度によって私は私自身を肯定し、愛することだってできた。そしてまたべつの誰かを、自分の家族を愛情に満ちた気持ちで接することだってできているのだと思う。たぶん。


いっぽうで、そのような家庭環境で育った私であっても、ある時あるタイミングで誰かから強い否定的な言葉を浴びせられたら、私はいまよりも自分自身を肯定的に愛せてはいなかったのではないかと想像する。

今日たまたまうちの3歳になる息子からそんな強い否定語を浴びせられた。「ダメっ!!パパ嫌い、あっち行け!」という彼の口から出た罵声である。息子はいま風邪気味で体調は万全でなく、お昼寝もきちんと出来なかったから機嫌はすこぶる良くなかった。こちらがしてほしいことと向こうがやりたいことが合致しないと(←ふつうは合致しない)そんな風に悪態をつく。子供が相手とはいえ、ふつうに腹が立つし、場合によって手も出る。

そういうとき、ダメとか、違うとか、あっち行けとかの言葉は確実に相手の心を傷つけるし、むしばむし、腐敗させる。最悪の場合、血が通わなくなる。


もしこの記事を読んでくださっているあなたが、かつて誰かに心のない言葉を浴びせられたら経験をお持ちであるなら、きっとその誰かは少し体調が悪かったか、お昼寝がうまく出来ていなかったか、お腹がとても空いていたかのどちらかだったと解釈してほしい。要するに、その彼/彼女はどこぞの3歳児と同じなのだと。彼/彼女がもう少し大きくなったときに、そんな言葉を相手に浴びせかけたことなんて記憶の片隅にもない。そんな3歳児の戯言だったのだと。

もしかしたらそれは真実ではないかもしれない。けれど浴びせられたほうの傷や記憶はしっかりとこちらに残る。そんな3歳児の一瞬の戯言のために、あなたがあなた自身を愛せなくなったとしたら、また誰かを愛せなくなっているとしたらそれは馬鹿馬鹿しい話だ。

だから、お願いだから、自分自身を愛することさえできれば、誰かを愛することだってできるはずだし、それがすべての人に当てはまる法則ではないかもしれないけど、少なくともあなたには当てはまる法則であると信じてほしい。そして願わくば、そんな愛する誰かと無事結ばれていてほしい。

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