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退廃的な人に共通する特徴


ステータスが白蟻が入る隙間を作ることもある

どんなに輝かしい経歴、高収入、高い役職であっても、その土台となる精神が退廃的であれば、それはまるで白蟻が家を蝕むように、内側から崩壊へと向かいます。

もし自らの精神が退廃に侵されていると気づいたならば、それは再構築の機会だと捉えるべきです。物理的な掃除、整理整頓、そして身嗜みへの配慮を通して、内面の再起動を図るのです。これは紛れもない事実だと私は考えています。

あ、この人心に白蟻がいるって思う人いるんです

仕事柄、私は多くの人々の人生相談に乗りますが、どんなに経済的に恵まれた生活を送っていても、本人が退廃的なスタンスでいると、「これならお金に多少困るぐらいの生活の方が豊かなんじゃないか」と感じることがしばしばあります。

また、なぜか行動や言葉に品があり、フランクな会話の中でも嫌味を感じさせず、むしろ気の利いたジョークに聞こえるような人たちは、身の回りの物が少なく、かつ整っている傾向があります。

その理由は私にも分かりませんが、いつも不思議に思います。

さらに言えば、身を持ち崩し始める人は、身の回りが最初に乱れ始めるように感じます。踵が潰れた靴、泥のついた靴、壊れたまま放置された錆びついた車、欠けた茶碗や茶渋のついたコップなど。

これらが悪いと言っているのではありませんし、このような状態にある人がネガティブだという意味でもありません。ただ、身を持ち崩していく人は、このような状態が増えていく傾向があるのです。本当に不思議です。

清潔がいいとか、そういった表層的な意味ではなく

清潔であることが良いという表面的な意味ではなく、身の回りの状態がその人の心のあり様や精神的な領域を反映している例は、実に多いと感じます。

これは、プラトンが「国家」で説いた「哲人王」の概念にも通じるかもしれません。
真の統治者は、外的な権力や富ではなく、内面の徳によって統治を行うべきである、というプラトンの思想です。

正直、私はこの思想があまり好きではありませんが、学ぶべき点は多いと思います。
話が逸れましたが、同様に、私たち一人ひとりも、外的な成功に惑わされることなく、内面の修養を怠ると、身を持ち崩してしまう可能性があるということを肝に銘じておくべきでしょう。

諸行無常感も知っていて損はない

仏教では、「諸行無常」という概念があります。この世の全ては常に変化し、永遠に続くものはない、という教えです。

これは、私たちが築き上げたものもまた、常に崩壊の可能性を孕んでいることを示唆しています。だからこそ、私たちは常に内面の鍛錬(バージョンアップ、整備、リニューアル)を怠らず、変化に対応できる柔軟性を保たなければならないのだと、人生の折り返し地点を過ぎた今、強く感じています。

老子もまた、「上善は水の如し」と説いています。水は、どんな形にも変化し、どんな場所にも流れ込むことができます。

これは、私たちもまた、状況に応じて柔軟に対応できる能力を持つべきであり、実は私たちはその能力を本来持っているのだと気づいた方が良いということを示しているのではないでしょうか。

退廃的だと気がついたら白蟻退治の始まりです

退廃的な自分に気づいた時、それを再構築の機会と捉え、自己を変革していくことこそが、人生というダンジョンを攻略するための強力な武器となるでしょう。

退廃的な状態からの再構築は、単なる自己啓発ではなく、哲学的な深みを持つ行為だと私は信じています。

それは、内面と外面の調和、変化への対応、そして真の強さへの追求を象徴しているからです。私たち一人ひとりが、この哲学的な視点を持ち、自己の内面と向き合うことで、より豊かな人生というダンジョンを攻略することができるのではないでしょうか。

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