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【読書感想】行人坂の魔物

会社から「noteに載せたいから読書感想文を書いてくれ」と頼まれたとき、少し悩んだ。
なるほど読書を趣味と公言するわたしに頼むというのは慧眼でしょう。むしろ他に頼まれていたら傷ついたかもしれない。
しかし我が社の業務を鑑みたとき、「ライ麦畑でつかまえて」の読書感想文を書くというのもおかしな気がする。ホールデンならその辻褄の合わなさを愚痴るはずである。
そうすると、なにか不動産を題材にした本は読まなかったかなと考えたのであるが「狭小住宅:新庄耕」しか思いつかなかった。きついきつい不動産営業の先に何が見えたのかという話だったので、それを不動産と業界にまつわる文化のようなものへ昇華させて感想を書くというのはわたしの技量では難しいと思った。だから悩んだ。
ところが、なにも小説にこだわる必要がないじゃないか、と思いつく。
自宅の本棚を、kindleを、手当たり次第チェックすると、ふさわしいノンフィクションが一冊見つかった。
「行人坂の魔物:町田徹」
行人坂とは東京都目黒区、目黒駅至近にあるとても急勾配な坂である。駅から歩いて崖と見紛わんばかりの行人坂を下ると、かの有名な目黒川に当たり、住宅街があり、ほのぼのとした東京の生活圏が広がっている。
はたしてそこになにがあるのか?
言わずと知れた目黒雅叙園である。
そう、舞台は目黒雅叙園であり、雅叙園の建つ土地なのだ。

わたしがこの本を読むきっかけとなったのは、(大元を辿れば)イトマン事件ということになる。
なぜ目黒雅叙園がそんな事件に関係するのか、ほとんどの人たちは知らないのかもしれない。実は雅叙園(正確には目黒雅叙園ではなくホテル運営会社・雅叙園観光)は住友銀行・イトマン事件の主役である許永中と伊藤寿永光が邂逅した舞台であり、バブル期の大看板たるふたりとは切っても切れない間柄になってしまう。なのでただでさえ複雑怪奇な「雅叙園観光事件」もイトマン事件の前哨戦のようにとらえられ、いつもその流れで目黒雅叙園ならびに雅叙園観光は登場する。
わたしはクラスメイトがお昼休みにスタバの新作の感想を言い合っている頃、ひとり食堂の片隅で「住友銀行秘史:國重惇史」を読み、バブル時代に起こった日本の経済事件にどハマりし、古本屋を巡り、片っ端から住友銀行・イトマン事件に関連しそうな本を読んだ。
(うら若き女学生が自宅の本棚にならべて写真を撮り悦に浸るには武骨がすぎると今なら気がつく)
「反転:田中森一」
「海峡に立つ:許永中」
「闇の盾:寺尾文孝」
「許永中・追跡15年全データ:伊藤博敏」
これらは元弁護士であったり、元刑事であったり、事件の当事者であったり、ライターであったりがバブルの狂乱を振り返るノンフィクションだった。そのなかでバブル史の一事件としての取り上げ方になっている。

しかし、「行人坂の魔物」の切り口はまったく違う。
目黒雅叙園の建つ土地を江戸時代から振り返っているのだ。経済事件の観点ではなく、土地の持つ歴史を紐解くなかでイトマン事件のことが出てくる。これは斬新だとわたしは飛びついて、没頭した。
行人坂の魔物、冒頭でこう書かれている。

「魔物が棲んでいるのではないか」
そう言われるほど、この地では古くから、不幸な出来事の枚挙に暇がない。

講談社:行人坂の魔物

そんな魔物が最初に牙を剥いたのは、今から400年近く前の元禄年間にまで遡る——。
あまりに崖のようなこの行人坂を通行するのは市民にとって大きな負担であった。自動車もない時代、満載した荷車を人力で登るのは困難を極める。わたしも実際に聖地巡礼したことがある。アスファルトで舗装された現代でも、引いてしまうくらいの急坂なのだ。
そこで通行人のためにもう一本緩やかな坂を拓いた者がいる。
ところが勝手に道を拓いたことでお上に死罪にされてしまう。現在でもこの坂は残されていて、その名を権之助坂という。
東京に住んでいれば一度は聞いたことがあるだろうこの坂は、今では目黒駅前のメインストリートになった。
この事件を皮切りに、目黒から千住まで江戸の町を焼き尽くした「明和の大火」の火元となったり、戦後最大の経済事件の舞台となったり、複雑に入り組んだ権利者たち、目まぐるしく変わる所有者たち、我が国の誇るメガバンクまでが手を出してお金を取られてしまう!
そんな悲喜交々さまざまな苦難がこの雅叙園の建つ土地に関わった者を襲う。(先に書いた許永中と伊藤寿永光も逮捕収監され表舞台から消えてしまった)
だからこの本のタイトルは「行人坂の魔物」なのだ。
触れる者を襲う魔物が棲んでいる、そう思わせる出来事の数々。土地の持つ歴史を400年も遡りしっかりと取材にあたり裏を取り分かりやすく解説してくれる本書はとても貴重な資料でもある。行人坂に限らず世の中のあらゆる土地、不動産には歴史がある。あなたの住む家、近所の公園、通った学校、どんな土地にも悲喜交々あったはずで、その歴史を探ってみればワクワクする何かが見つかるのではないだろうか。
土地の魅力とはそういう歴史の集積かもしれない。

不動産の売買というのはただでさえ「センミツ」などと呼ばれる(1000に3つくらいしか成約しない)ほど不確実な要素が多い世界だ。降りかかる様々なトラブル、予期せぬ問題、突如やってくる事件、自動販売機でジュースを買うようにはスムーズにいかない。しかしそこにやりがいを感じたり、面白みを感じたり、絡まったトラブルの糸を解していく作業に意義を感じたりする仕事でもある。そんな仕事で人の助けになったりするので不動産業というのも決して悪い仕事ではありません。
向き不向きはもちろんあるけど、行人坂の魔物を読んでワクワクしてしまう人は結構向いているかもしれない。

それなりに長文になったし、さてこの辺りで〆ようかと思ったが——実は行人坂の魔物には続きがある。
この本が出版されてからちょうど6年、2019年の終わり頃から新型コロナウィルスが大流行する。
現在、雅叙園の結婚式場の運営権はワタベウェディングという企業が持っている。ブライダル業界3位というとてつもなく大きい企業でもちろん上場している。そんなワタベウェディングは創業から60年かけてコツコツと積み上げてきた純資産を、コロナのパンデミックによりわずか一年足らずで吹き飛ばしてしまうのだ。
〝行人坂の魔物〟は本当にいるのかもしれない。

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