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「プロ論」を超えて Vol.1

誰もがプロフェッショナルでなければ生き残れない、という脅迫観念が日本社会を覆い始めて久しい。
終身雇用、年功序列は早晩崩壊、成果主義、市場価値、専門性、個人の時代…という寸法だ。

反対に、「プロでないこと」への風当たりも強くなってきた。大企業のローテーション人事に沿って歳を重ねていくようなキャリアがその代表例だ。「広く、浅く」は諸悪の根源とされ、それは産業界だけでなくアカデミックの世界でも見られるように思う。
何の強みも持たずにアラフォー、アラフィフを迎えてしまった「働かないオジサン」が大量に社会に放出されるのは時間の問題なのかも知れない。

そもそも、プロとは何か?
私たちはみんな、プロを目指すべきなのか?
プロが増えれば社会は良くなるのか?

なぜか、ふと、そんな疑問を持った。

私が理解している「プロ」の解釈は、特定分野に深い専門知識、高度なスキル、豊富な実績を持つ人間のことを指す。だから、転職市場でも有利であり、人生100年時代を生き抜いていくために不可欠だと感じるのは自然なことである。

しかし、プロだけで社会は回っているのだろうか?
プロではない人が社会にたくさん存在している意味は何なのだろうか?

例えば、「プロ」という概念の外にある大事なコトとして、ざっと下記のようなことが挙げられる。

①まったく新しいことへの挑戦
誰もやったことのないことには、当然ながら、プロはいない。イノベーションとは新しいことの創造であるが、最初の一歩を踏み出すのは「アマチュア」ということになる。

②異なる分野を融合させて価値を生む
専門性をもとに、高いクオリティを出すことがプロの必須要件である。当然「ここからここまでは責任を持って対応します(それ以外のことは他をあたってください)」という基本スタンスとなる。
しかし、世の中それだけで事足りるものだろうか?
専門分野Aと専門分野Bの間に落ちるような大事なことは、世の中に溢れている。また、イノベーションは「新結合」という意外な組み合わせであるともいう。しかし、プロは自ら新結合を起こしにいくことは少ない。責任が持てないからだ。自分の知識と経験値で保証できる範囲のなかで対応するのがプロということになる。一方、AとBを結ぶ役割を担う類の人種がプロと呼ばれることは少ないのではないかと思う。

③大きく物事を回す
大企業では専門性が育ちにくい、と言われる。当然である。大きく投資をし、大量に生産をし、大量に販売をし、巨額の収益を上げ…というサイクルを回すには、社内外の多様なプレーヤーとの円滑な連携が最重要事項である。分業、外注を駆使して生産効率を最大化するプロデュース機能、プロジェクトマネジメント機能こそが大企業の要諦である。人ひとりにいくら高い能力があっても、できることには限界がある。お互いに補いあって大きなことをやりましょう、というのが大組織だ。社会は大きな組織を必要とするし、その成員が加齢によって市場価値を失い、社会に放り出されるというのは、実は合点がいかないことではないか?

新しいことを始め、異なる人や知恵をつなぎ、大きな物事を成し遂げる人…これって、英雄では?偉人では?少なくとも成功する経営者って、こういう要素不可欠だよね??

コロンブス、エジソン、織田信長、スティーブ・ジョブズ…彼らは、プロという範疇では語れない。

これいかに。

(続く)

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