親和欲求を取り戻したい。


たまに本屋さんへ行って、自分がどんな本や内容に引っ掛かるかをメタ認知する。

その中には、最近の自分がずっと考えていることだったり、気にしているものがある。

(例えば、恋愛本をやたら気にするのなら、恋をしたがっているということだ)

今回のそれは心理学の本にある「親和欲求」の話だった。

誰かと一緒にいたいという欲求。
極めて自然な欲求。

なぜ気にしているのかはすぐに分かる。

僕は今の派遣先で、誰かと仲良く過ごすようなことをしていないからだ。

「仕事だから」と割り切ってしまえばそれまでなのだが、僕は「今の時間は、なるべく楽しいものであったほうがいい」主義なので、特別割り切っているわけではない。

割り切っていないのに、なぜ深く関わろうとしないのか。

多分、自分を偽るのが疲れるからだと思う。

まだ相手に対して恐怖感すら感じているのに仲良くする素振りなんて見せてしまったら、相手を沢山期待させておいて、バレた際には傷つけてしまうことになるからだ。

そんなのはお互いに損するだけ。

だからもともと期待させない。偽らない素の状態で過ごす。

余裕が無いからだ。期待に応えられる余裕が無い。期待が降りかかると「うまく応えられるだろうか」とそれに怯える。

余裕が生まれたのは、相手の期待に応えられてる自分の姿が想像できるようになってからだ。

周りに緊張してうまく動けないような自分では、期待に応えられない。だから敬語なんか使ってハードルを下げておく。

そんな理由で、せっかく相手が寄り添ってくれてたのに、ずっと距離をとってしまっていた。

たくさん相手を傷つけてしまったけれど、余裕ができたら絶対取り返すから待っててみたいな気持ちで過ごしてた。

もちろん、傷つけてしまった分は返ってくる。

「あぁこの人仲良くなる気ないんだ」と冷たい対応なんか散々受けた。

でも僕には事情があった。もう何度も何度も味わったこの感情にいちいち傷ついている暇もない。

ここで始まったことじゃない。人に恐怖感を抱いてもう四年くらいにはなる。だからもう慣れてる。

僕はただ合理的な解決に向けて、一歩でも前進へと近づくだけ。解決を信じているから今日も進めるし、明日も進もうとできる。

結論。自分には余裕がなかったから、親和的な行動がとれなかった。

余裕には「安心」が必要だ。

ここでいう「安心」とは「警戒」の逆にあたる要素。

安心するために、他人を好きになりたい。

昔はもっと好きだったのに。たまに学生時代のその感覚を思い出す。

「名前を呼ばれて嬉しかった気持ち」とか。

「中身のない会話をしたり」だとか。

「もう仲良くなってる2人を見て少し羨ましい気持ちになったり」とか。

「カースト」とか「グループ」とか。

「不意なボディタッチ」とか。

「アイコンタクト」とか「笑顔」とか。

「ごめんな」とか「ありがとう」とか。

なんで愛想笑いも出来なくなったくらいにもうすべてを忘れてしまったのだろう。

好かれなくていいなんて思えてしまってるし、嫌われるような振る舞いなんか多分にしてしまっている。

空中に飛び交う会話がすべて上っ面に聞こえる。

みんな気を張ってるし、返事や態度に覇気を出してくる。圧をかけてくる。

それを感じるたびにウザったくなる。
面倒くせーと。いちいち疲れる。自分の立場守ろうと必死かよと。

やたらと喋る人がいる。仲良くなるためじゃない。社内での立ち位置を確保するため。会話のほとんどが薄情的(気持ちがこもってない)でうわべ。

多分この人と仲良くしようとしても合わないだろうなと判断する。うわべの会話するのなんかゴメンだから。

まぁでもこれが、学生と社会人の違い。

うわべでも付き合いなのだ。言葉を交わせば情報を与えていることになり、いちおう安心にはつながる。相手に安心を与えること、つまり大人だ。

この人とは合わないからって無言でいると、社会人のマナー的にはバツなのだ。うわべの会話が正解。それが社会におけるコミュニケーション。

それが透けて見えるからほんと関わるのがイヤになってるのかもしれない。

もう1人のほうが楽でいいや。って。
(協調性がないって言われるんだろうけど)

それでも、楽しさは「会話」の先にある。

例によって「うわべちゃん」は、いつどんな時でも、いろんな人に声をかけることができて、非常に過ごしやすそうだ。

「過ごしやすさ」は「安心」に近い要素だ。

大人のルールに突入してしまったけれど、人は感情の生き物だし、ここはまだ甘いほう。

だから僕は思い出したいとおもう。

目指すは「他人が好きな笑顔の多い自分」へ。

他人を好きになれば、認知が大逆転しそうな気がするから。

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