歴史と史実は違う

14歳の中学生時代

タイトルは、中学の歴史授業の1回目に先生が言った言葉である。
「歴史」はその国の歴史家たちがまとめた結果であり、その国の歴史観などにより「史実」と異なる内容を示されることがあるから、この「歴史」と「史実」は異なることがあるのだ。という内容であった。

約20年経って感じること

時が経過して自分も社会人を何年かしてきた。その中で最近、タイトルの言葉を思い出すことが多くなってきた。

自分はサイバーセキュリティーに関する仕事をしているが、報道されるような事象が何故発生したかの真実は部内者含めて適切に調査することで何かが明らかになると思われる。しかし実際には部外者が色々言って「こうだろう」と推測してそれが通説となり既成事実になるのだなと思っている。その状況下において「史実」をまとめるためには各所が協力していく必要があると思っている。

また、私事なところで争い事が発生した時に、私は相手がこれまで描いてきた補助線によってその歴史が発生したのだから裁判を起こす決断をしたのだ。しかし相手は裁判を起こすに至る補助線を引いていたつもりが全いため、それぞれの「歴史」が異なりすぎて裁判の場で衝突してしまっている。これは互いの「歴史」から「史実」を紡いでいくための裁判をやっていくことになるのだろうか。

事象の観測方法に気をつけて、史実を正しく説明できるように今後とも気をつけながら説明できるように生きていこうと思います。

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