苦労と言葉。

私は、言語を教える仕事をしている。
言語を教える仕事をしていると、当然のことのようにニュアンスについての説明が入る。そして、そのニュアンスは無意識のうちに選ばれるものである。

二年前の私は人間の無意識を把握することで相手を100%理解でき、その無意識は相手の言語センスに顕著に現れるものだと信じていたが、真剣に言語と向き合うようになって、そうではないケースもあるのだと知った。

簡単な例で言えば、「青」と「藍色」。
生まれてこの方「藍色」という言葉を聞いたことがない人はなんでもかんでも「青」と表現するだろう。

要するに、その人の人生経験から蓄積された言葉によって、相手に言語のニュアンスを求めるか否かが変わってくるのだ。精密な会話は、少なくとも同じレベルで言語を愛していなければ成り立たないのだ。

私はそれを理解せず、私が人生をかけて作り上げた定規を相手の無意識の奥深くに突き刺し、測っていた。それは半分正解で、半分間違いであったことに気づいたのは、ここ一年ほどだが。

そもそも比較的語彙力の少ない人間はニュアンスなどで遊ばないのだ。
直接的に自分の欲に忠実に従い会話を進める。よって、人間としての所謂裏表はそこで排除される。

さて、タイトルに苦労と入れたが、そこの説明がまだだったので進める。

苦労は言語能力を直接的には伸ばさないが、言葉のチョイスを変える。
他人を傷つけない、裏のない、強く芯のある言葉をその人に与える。それは、ニュアンスで遊ぶなどというおままごとを大きく凌駕した、素晴らしいもの。

言語は楽しみ方が無数にある。
私は、今更ながらにしてそれを知ったのだ。

世界は広いのだ。
生命と向き合った人間と会話するたびに、私の視野も広くなっているんだと、これが生きる対話だと、私は感動をここに残したい。





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