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おひとりさま礼賛物語

 大学生になって、私はひとりが得意になった。

 もともと、教室のすみでひっそりと読書しているような大人しいタイプではあったけれど、あの頃の私の「ひとり」には、どことなく劣等感の香りが漂っていた。少女たちは、誰かの隣にいなければ呼吸ができなかった。

 女の子は群れる生き物というイメージは根強いと思うし、実際、その通りだとも思う。中性的な雰囲気の女子が多かった女子校でも、女の子はたいていグループを形成していた。

 中学生の頃、私はひとりだった。音楽や本の趣味がどうしても周囲と合わず、最新の話題についていけなかった私は、特定のグループに入ることができなかった。教室には、グループのためのテリトリーはあっても、おひとりさまのための椅子は用意されていなかった。

 仲良しで平和なクラスには、おひとりさまは存在してはならない。結局私は、どのクラスにも必ずいる「真面目な学級委員キャラ」を演じ続けることによって、おひとりさま排斥の魔の手から逃れたのだった。

 高校生になってから、私はおふたりさまになった。奇跡的に趣味が合った少女と、一緒に昼食をとり、テスト勉強をし、次の教室まで歩いた。一緒にいすぎて、カップルのようだと揶揄されたこともあった。これは、私たちの例に限った話ではなく、女子校では疑似夫婦のような関係性が形成されることは珍しくなかった。

 大学生になって、私は再びおひとりさまになった。おそらく、私の背中は中学生の時のような悲壮感を漂わせてはいないだろう。カリキュラムの関係上、私が所属する学科はそれぞれの時間割が全く異なる。そのため、移動も食事もひとりになることが多くなった。自分が学びたいことを優先するには、おひとりさまの状況に甘んじなければならない。気づけば、ひとりで喫茶店、ひとりで映画、ひとりで美術館……、おひとりさまを謳歌するようになっていた。

 最近、いちばんおひとりさまを楽しんだのは、12月はじめのふたご座流星群の夜だった。難産だったレポートを書き上げ、ランナーズ・ハイならぬライターズ・ハイに陥っていた私は、深夜テンションのまま、近所の公園に星を見に行った。深夜2時、丑三つ時。静寂に満ちた公園で、温かいココアの缶を片手に空を見上げた。すうっと闇を滑り落ちていく光の欠片と、中天に輝く月の神々しさは、言葉では言い尽くせないほどだった。

 誰かと言葉を交わしながら眺める夜空も美しいけれど、自分の胸の内に湧き上がる言葉と向き合う時間も悪くない。誰かの隣にいる私も、己の足だけで立つ私も、共に自分なのだ。

 

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