【小説】時の砂が落ちるまで 番外編「セシルの手記」

 私の一族は、代々レジー侯爵家の使用人として主人の世話を担当してきた。しかし、未だかつて、あんなに自由奔放な侯爵は他にいなかったと思う。
 私が仕えることになった次期侯爵のヴィンセント様は、つややかなダークブラウンの髪と青い瞳を持つ少年だった。十歳という年齢ながら、既に次期当主にふさわしい明晰な頭脳と礼儀作法、ダンスの腕を備えていた。
 ただ唯一欠点を挙げるなら、大変な悪戯好きというところだ。ご主人様は私を揶揄いたいらしく、毎日様々な悪戯を仕掛けてきた。
 ある時、ご主人様が勉強をしている間に時計を見ようと胸ポケットに手を入れると、何やら粘ついた感触がした。覗き込んだ先には大きな蛙がいて、私と目が合った途端、げこり、と喉を鳴らした。
「ひぇっ!」
 情けない悲鳴が出た。けらけらと笑い声が聞こえる。いつの間にか、ご主人様が満足そうな顔でこちらへ振り向いていた。
「ひぇっ、だって。あぁ、面白い」
「ご主人様、良い加減になさってくださいませ! この蛙は川に戻してきますから、私の時計を返してください。ご主人様が隠したんでしょう?」
「そうだよ」
「宝探しをしている時間は無いのです。きちんとお勉強なさらないと」
「勉強ならもう終わってるよ」
 ご主人様はにっこりと笑顔を浮かべた。どんな悪戯をされても、この笑顔を向けられると、きつく説教をする気すら失ってしまう。
「もう……悪戯はほどほどにしてくださいね」
 私はため息をつき、蛙を川に戻しに行った。
 レジー侯爵家の城は、小高い丘の上に建っている。ご主人様は丘に遊びに出ると、いつも、ワンピースを着た金髪の可愛らしい少女とお喋りをしていた。彼女はルーシーという名前で、ご主人様と、とても仲が良かった。
 ご主人様はルーシーに恋をしていた。彼女から花の冠をもらった日には「この冠を部屋に飾る」と嬉しそうに語り、彼女に悪戯をして困らせてしまった日には「どうすれば良い?」と泣きながら相談してきた。
 私はこの純粋な甘酸っぱい恋を、いつまでも見守っていたいと思っていた。
 しかし、ご主人様の恋が実ることは無かった。ルーシーは、丘の麓で暮らす町の庶民だったのだ。厳格な階級制度を有するこの国では、貴族と庶民が直接関わり合うことすら滅多に無い。そのうえご主人様には許嫁がいる。彼女と結ばれる可能性は、ゼロに近かった。
 さらに悲しいことに、ある日、ルーシーがご主人様に別れを切り出した。
「私、明日引っ越すの。ずっと遠くの町よ。だから、あなたとはもう会えなくなっちゃう。一緒にお話できて楽しかったわ。ありがとう」
「……そうなんだ。僕も一緒にお話できて楽しかったよ。ありがとう。引っ越しても元気でいてね」
「うん。ありがとう。さようなら」
「さようなら」
 ルーシーの前では笑顔を見せていたご主人様は、就寝前、私に駆け寄って抱きついてきた。
「っ……嫌だ……嫌だ。ルーシーが良いって、決めてたんだ。将来、結婚相手を選ぶ時が来たら、僕はルーシーを選ぶって、決めてたんだ」
 ご主人様は、歯を噛み締めて涙を零した。
「きっと、また会うことができますよ」
「いつ会える? いつどこで会える? 分かるのか、君に」
 服の裾が、強く握りしめられる。
「……分からないなら、そんな風に言うな!」
 今までに聞いたことのない、涙交じりの鋭い声だった。衣服越しに叩きつけられる握り拳が、重い。しばらく沈黙が続いた後、ご主人様は暗い声で言った。
「……一人にさせてくれ」
「……承知いたしました。お部屋の外におりますので、何かございましたら、お申し付けくださいませ」
「うん」
 私は胸が締め付けられるような思いで部屋を出た。ご主人様は一晩中泣いていて、すすり泣く声が部屋の外まで漏れ出していた。
 こうして甘酸っぱい恋は、ほろ苦い後味を残して消えてしまったのだった。

 それから何年もの時が経ち、ご主人様が成人なされた頃に、旦那様——即ち、ご主人様のお父様が亡くなられた。ご主人様は旦那様から侯爵の位を受け継ぎ、正式にレジー家の当主となった。
 ご主人様は許嫁のナンシー様と結婚式を挙げた。あんなに悪戯好きでわんぱくだったご主人様が、私よりも背丈が伸びて、凛々しい顔立ちになって、ナンシー様を立派にエスコートされている。私は思わず涙ぐんでしまった。
 教会での結婚式を終えると、ナンシー様は、ご主人様と共に城で暮らすことになった。とても明るい方で、私を含めた使用人たちをよく気遣ってくださった。ご主人様とも気が合い、よく冗談を言い合っている様子も見られた。
 しかし、城での生活を始めてからわずか半年ほどで、ナンシー様の姿が見えなくなった。ご主人様によると、町へ出かけたまま戻ってこないという。警察に頼んで町中を捜してもらったが、ナンシー様は見つからなかった。
 その後ご主人様は二人目の妻、アイリス様を迎えられた。彼女は本が好きで、書斎でよく読書を楽しまれていた。だが、彼女も謎の失踪を遂げた。
 三人目の妻、グレース様が失踪してから、私は『青髭』という童話を連想し始めた。もしや、ご主人様が、ご自身の妻を? だが、私が幼少の頃から見守ってきたご主人様が、本当にそんなことをするようには思えない。きっと町には、女性ばかり狙う凶悪な犯罪者がいるのだ。そう考えることにして、必死に疑念を頭の隅へ追いやっていた。
 しかし、その後も四人目のハンナ様、五人目のティファニー様が同じように失踪を遂げた。
「みんな、どこに行ってしまったんだ……」
 ご主人様はそう言って悲しそうにうなだれていたが、私の疑念は日に日に膨れ上がり、寄り添って慰めることさえできなくなっていた。

 ある時、ご主人様が長期間外出される機会があった。城内を調べる絶好のチャンスだと思った私は、出かけようとするご主人様に声をかけた。
「ご主人様が外出される間、私どもが、城中を掃除させていただきます。ご帰還される頃には城中が綺麗になっておりますので、どうぞ安心して行ってらっしゃいませ」
 顔色をうかがったが、ご主人様はいつも通り微笑んで、こうおっしゃっただけだった。
「ありがとう、セシル。よろしく頼むよ」
 複雑な気持ちでご主人様を見送ると、私は他の使用人たちと共に城内を歩き回った。掃除をすると言った以上本当に掃除をしないと怪しまれるので、はたきで埃を払ったり壁のシミを落としたりして、目が行き届く範囲の掃除は済ませておいた。残すは、ご主人様の部屋だけだ。
「失礼いたします……」
 他の使用人たちを自室に戻らせた後、一人、声をかけながら扉を開ける。部屋の隅の埃を払っていると、床に取っ手のようなものが付いているのに気がついた。取っ手を掴んで軽く引けば隠し扉が開き、下へと伸びる石の階段が現れる。
「これは……地下室……?」
 この城には執事がワインを管理するための地下室があって、キッチンから出入りできるようになっている。だが、ご主人様の部屋の下に、地下室がもうひとつあるのは知らなかった。
 ここには何があるのだろう。私は湧き上がる好奇心に身を任せ、そっと階段を降りていった。
 階段の先には頑丈そうな扉があった。何やら嫌な臭いがする。鼻を押さえながら扉の取っ手を握り、手前に引く。扉は軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。
「ぐっ……」
 悪臭が増す。部屋の中は暗くてよく見えなかったが、時間が経つにつれて目が慣れてくる。
 地下室の床には、服を着た人のようなものが五つ、重なり合うようにして倒れていた。それぞれ色の違うドレスの表面には、赤黒いシミがいくつもこびりついている。ドレスからのぞく皮膚は腐敗が進み、おびただしい量の蛆虫がわらわらと這い回っていた。
「ぁ……あ、ぁぁぁああ」
 腰が抜け、その場にへたり込む。これらはご主人様の妻だ。やはりご主人様は、ご自身の妻を、全員、自らの手で。
「ひぃ……ぁぁぁああ」
 必死に床を這い階段を上り地上に戻る。ご主人様が急に恐ろしく思えてきた。自分の妻を五人も殺害しておいて、どうしてあんなに平然と振る舞えるのだろう。妻の遺体を地下室に放り込んでおいて、どうしてあんなに悲しげな顔ができるのだろう。
 私は地下室に続く隠し扉をしっかりと閉め、ご主人様の部屋から逃げ出した。
 ご主人様が帰ってくる日になっても、あの地下室で見たものを忘れることはできなかった。
「お、お帰りなさいませ。ご主人様」
 震える唇からなんとか声を出し、頭を下げる。
「ただいま」
 西日が差し込む玄関で、ご主人様はいつも通りの笑顔を向けてくる。
「城の掃除はしてくれたのかな?」
「え、ええ。もう、隅から隅まで掃除いたしました」
「そうか、ありがとう。少し部屋で休んでくるから、夕食の時間になったら呼びに来てくれ」
「し、承知いたしました。夕食の時間まで、ごゆっくりお休みくださいませ」
 脳裏にこびりついた恐ろしい光景を消し去るように、私は微笑んでみせた。

「セシル」
 夕食の時間。ご主人様はいつもと同じような調子で、私に話しかけてきた。
「は、はい」
「私の部屋を掃除してくれたんだな」
「はい。ご主人様がお戻りになった時、快適にお過ごしいただけるようにと……」
「そうか。ありがとう」
 ご主人様は目を細めた。その笑顔は幼少の頃から全く変わらない。私は安堵した。自分が見たあれはきっと、悪い夢だったのだ。だって、こんなにあどけない笑顔を浮かべる人が、殺人を犯すはずがない。
「なぁ、セシル」
「はい。何でございましょう」
 尋ねると、ご主人様は目を細めたまま言った。
「ありがとう。地面の下まで掃除してくれて。臭いが酷かっただろう?」
「……え?」
 思わずご主人様の顔をまじまじと見る。細められた瞳には、光が全く宿っていない。
「……な、何を、おっしゃって」
「地下室の扉。開けたのならきちんと閉めてくれないと困るよ。私の部屋まで臭いがきつくなってしまうじゃないか」
 血の気が引いた。思い出した。地下室から逃げる時、あの頑丈な扉を開け放してきてしまったことを。
「は……」
 思わず後ずさる。ご主人様は真顔でこちらを見つめていた。
「セシル。見たのか?」
「はっ……」
「見たのかと聞いているんだ」
「…………」
「見たんだな」
「…………は、い」
 私は観念して答えた。逃げ出したいのに、体が言うことを聞かなかった。
「……そうか」
 ご主人様は穏やかに微笑んだ。そして椅子から立ち上がり、テーブルクロスの上のフォークを手に取って、こちらに歩み寄ってくる。
「……ご、ご主人様?」
「怖かっただろう。すまない」
「ご主人様、何を」
「もう大丈夫」
「ご主人様……っ!」
 勢いよく後ろに倒される。胸元に体重がかけられる。押しのけようとするが手首を強く掴まれうまくいかない。眼前に、フォークの先端が振りかざされる。
「お、やめ、ください……あなたは、そんな、方では……!」
「もう、そんな奴になってしまったんだよ。私は」
「どうして……」
「さぁ? 確か、最初は財産のためだったと思うんだが……いつの間にか、やめられなくなっていたんだろうな」
 ご主人様は自嘲気味に笑った。
「あぁ、セシル。そんなに怯えないでおくれ。もう、怖いものを見なくて済むんだよ」
 ご主人様の指が、私のまぶたを大きく開く。
「ぁ……あぁあ……っぐ」
 肘で口を塞がれ声を上げられない。上から強く押さえつけられ暴れることもできない。溢れ出した涙が、頬を濡らしていく。
 フォークの先端が私の眼球にあてがわれた瞬間、ご主人様の穏やかな笑顔は、猟奇的な笑みに変貌した。

 気がつくと、体の自由がきくようになっていた。ご主人様の姿はない。助かったのだろうか。
「誰か! 誰か、いませんか」
 声を上げてみるが誰の返事もない。辺りを見回せば、窓の外は明るく、テーブルの上は綺麗に片付けられている。夜が明けているのだ。
「わあぁ……っ」
 部屋の外から激しい泣き声が漏れてきた。何事かと耳をすませる。他の使用人たちの会話が聞こえてくる。
「なんてことだ……セシルさんまで、いなくなってしまうなんて」
 いなくなった? 私が? 何を言っているんだ。私はちゃんとここにいる。
 顔をしかめて扉を開けようとすると、ドアノブを掴もうとした手が、空を切った。
「え?」
 何度も手を伸ばしてみるが、指がドアノブをすり抜ける。それどころか、指がドアを突き抜けていく。まるで、私の体が透明になったように。
「……まさか」
 私はもう死んだのか。あの時、ご主人様に目を抉られて死んだのか。思いきってドアに体当たりをしてみると、体がドアをすり抜けていくのが分かる。やはり私は、亡霊になっているらしかった。
 この姿は誰にも見えず、この声も誰にも聞こえない。ご主人様でさえ、私がまだこの城に留まっていることに気づかない。それでも、私はご主人様をそばで見守り続けた。自分の妻を五人も殺しているのに、自分も殺されているのに、ご主人様から離れる気は起きなかった。
 本当はもっと恨んだり、亡霊らしく呪いでもかけたりした方が良いのだろう。だが、レジー家の使用人として生きてきたからには、ご主人様の命が尽きるのを待って、共にあの世へ向かいたい。たとえ行き先が地獄であろうと構わない。最後まで、使用人としてご主人様のそばにいられるならば、私は幸せなのだ。

 その後、ご主人様は三十歳になられた年に、ナンシー様のご家族が開催するパーティーに参加された。酒が頭に回り、出された料理を上機嫌で召し上がっていたご主人様は、急に苦しみ出して倒れ込んだ。使用人たちが慌てて医者を呼んだが、もう、手遅れだった。ご主人様に出された料理には、致死量の毒が盛られていたのだった。
「当然の報いだ。人殺しめ」
 ナンシー様のご家族の一人が、ご主人様の遺体に向かってそう吐き捨てていたので、おそらく復讐だったのだろう。
 ご主人様の葬儀が行われる中、私は一人、城に戻った。きっとご主人様も亡霊と化して、ここに戻ってくると思ったからだ。ご主人様が戻ってきたら、二人であの世に行こう。そう考えていた。
 だが、葬儀から一週間経っても、二週間経っても、ご主人様は戻ってこなかった。ご主人様の跡を継ぐ者がいないので、そのうち使用人たちは城から離れていき、私だけが残された。城内には蜘蛛の巣が張られ、綺麗に整えられていた庭も、荒れ果ててしまった。
「ご主人様……ヴィンセント様……」
 人のいない城内はひどく寂しい。私は何度も何度もご主人様の名前を呼び、帰りを待ち続けた。

 ご主人様の葬儀から二ヶ月が経った、ある夜。ふいに、微かな物音がした。
「……ご主人様?」
 もしや、帰ってきたのだろうか。私は音がした方へ向かった。
 そこはご主人様の部屋だった。人の気配がする。そっと扉をすり抜け、部屋の中に入る。
 大きく開いた窓から冷たい風が吹き込んでいた。月明かりが、椅子にもたれかかる人影を照らす。見知らぬ女性だった。どこか恍惚とした表情を浮かべて目を閉じている。綺麗な人だなと思って見ていると、彼女のすぐそばでもうひとつの人影が動き、その首筋に噛みついた。
 白い髪。鋭く尖った耳。長い爪。こちらに気づいて振り向いた瞳は、燃えるように赤い。だが、身に纏ったフリルシャツやジャボブローチや黒いスラックスはひどく見覚えのあるもので。顔立ちも、凛々しく美しいままで。
「……ご主人様」
 私は深々と頭を下げた。
「おかえりなさいませ。ご主人様」
 しばらく目を見開いて固まっていたご主人様は、やがて鮮血に濡れた唇を袖口で拭い、くつくつと笑いを漏らした。
「まさか、ここまで付き合いが長くなるとは思わなかったよ。君のことだから、ずっとここで待っていたんだろう?」
「ええ。ずっと、ずっとご主人様のおそばにおりました」
「私が死んだ時も?」
「……ええ」
 私がそう言うと、ご主人様はますます愉快そうに笑う。
「申し訳ないが、まだ君とは一緒に行けそうにない。こんな体になってしまったからね」
「はい。承知しております」
 青白い月光が、女性の首筋に深く刻まれた噛み跡を照らし出す。
「なぁ、セシル。これからも、私のそばにいてくれないか」
 ご主人様は私を見つめて言った。どこまでも、自由奔放な人だ。
「もちろんでございます。これからも、ヴィンセント様のおそばに」
 私は迷わず頷いた。昔からずっと、ご主人様のお世話をするのは、私の役目なのだから。

                〈おしまい〉

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