【小説】時の砂が落ちるまで 番外編「ヴィンセントの手記」

 気がつけば、非常に狭い空間にいた。指で押し開けると、目の前の壁が開く。空間の外に出てようやく、自分が何に入っていたのかを知る。その周りにも、同じような形の棺が、たくさん並べられていた。
「……そうか」
 私は死んだのだ。一人目の妻の家族が開いたパーティーに招かれ、出された料理を食べて、急に息ができなくなって。きっと、あの料理の中に強い毒でも入っていたのだろう。己の無用心さを悔いる。
 私に恨む資格は無い。毒を盛られても、仕方のないことをしたのだから。財産欲しさに妻を刺し、続いて二人目の妻も、三人目も、四人目も、五人目も。彼女たちの亡骸は地下室に置いてあったが、使用人のセシルに見られてしまったので、彼も両目を抉って殺した。振り返ってみれば、随分と手を汚したものだ。
 きっと、これから私は地獄へ行く。迎えが来るまで大人しく待っていよう。そう思っていた。
 だが、亡霊になったにしては、やけに実感が薄い。浮遊感も、物体をすり抜ける感覚も無い。靴の裏はきちんと床についているし、壁を手で触ることもできる。
「……どういうことだ」
 思考を巡らせていると、部屋の外から小さな明かりが近づいてくるのが見えた。咄嗟に棺の陰に隠れる。
 部屋の中に、ランタンを持った、くたびれた格好の男が入ってきた。男は棺にランタンを近づけ、ひとつひとつ確認していく。そして私が入っていた棺に辿り着き、おもむろに口を開く。
「あのレジー侯爵様がねぇ……こんなとこより、もっと立派な棺に入ってもらって、もっと大きな教会で眠ってもらった方が良いだろうに……」
 そしてランタンを私の棺に近づけた彼は、「ん?」と声を漏らした。少しだけ開いた蓋を持ち上げて、覗き込み、面白いほどに目を見開く。
「……なんで。中身が無い」
 狼狽える男の様子を見ているうちに、悪戯心が湧き上がってきた。そっと立ち上がり、男の背後から肩を叩いてみる。
「こんばんは。どうかされましたか?」
 たちまち絶叫が響いた。後ずさる男の手を取る。
「失礼。どうやら死に損なったみたいでね。驚かせてしまったかな?」
「ぁ……ぁあ……は、離せ、化け物……!」
「ふふ、化け物とは心外だな。つい最近まで、君と同じように生きていたのに」
 必死に逃れようとする男を強く引き寄せる。
「ここの居心地は悪くないんだが、やっぱり城が恋しいんだ。案内してもらえるかい?」
「い、嫌だ、死にたくない……俺はまだ死にたくない……! ここの見回りの仕事で、金を貯めて、妻に腹一杯食わせてやりたいんだ……お願いします、どうか助けて……」
 男は半泣きで喚いた。どうやら私に殺されると思っているらしい。
「別に、道連れにしたい訳じゃない。城に帰りたいから案内してもらいたいんだよ」
 そう説明しても、男は小さく震えている。この様子では難しそうだ。
「はぁ……すまない、少々脅かしすぎたようだ。道案内は別の人に頼むよ」
 私は手を離し、へなへなと床にへたり込んだ男を横目に、部屋を後にした。

 私がいたのは、古い教会の霊安室だった。ここから城まで、徒歩ではとても遠くて厳しい。だからといって馬車に乗せてもらうのも好ましくない。人に声をかければ、死んだ侯爵が蘇ったと大騒ぎになってしまうからだ。私はできるだけ人目につかないよう、辺りを気にしながら夜道を歩いた。
 しばらく進むと、急に喉が渇いてきた。既に死んでいるのにおかしなことだが、もう何十日も水分を摂っていないような感覚で、体が思うように動かない。
「おい、どうしたんだ?」
 ふいに、後ろから声をかけられた。何も考えず振り向いてしまったが、声をかけてきた男は、私が侯爵であるとは気づいていないようだった。
「兄さん、具合悪いのかい?」
「あぁ、いえ……少し、喉が渇いていまして」
 立ちあがろうとしてよろめいてしまい、男に支えられる。
「こりゃあ、ひどい脱水だ。今、人を呼ぶから待ってろ。大丈夫だからな。おおい、おおい、誰か来てくれ」
 思っていたより大ごとになってしまった。近くに町があるようで、起きていた人が、次々に集まってくる。
「どうしたトム、そんなに騒いで」
「この兄ちゃんが具合悪いんだよ。ありったけの水と、あと、食い物もたくさんあった方が良い。誰か、この兄ちゃんを泊めてやってくれ」
「いえ、お気遣いいただきありがたいのですが、私は大丈夫ですから……」
「大丈夫って、顔が真っ青じゃないか!」
「俺ん家で良ければ休んでいきなよ」
 町の人々が心配そうに顔を覗き込んできた。体にもう血が通っていないせいで、断ろうとしても、まるで説得力がないのだ。
「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
 私は諦めて、しばらく町に留まることにした。

 私を家に泊めてくれた男性は、ヘンリーという名前だった。ヘンリーさんの妻も彼から話を聞いて、深夜にも関わらず、温かく出迎えてくれた。
「いらっしゃい! こんな狭いところだけど、ゆっくり休んでいってくださいね。ええと、あなたは……なんとお呼びすればいいかしら」
「あ……申し遅れました。ヴィンセントと申します」
「ヴィンセントさん、ですね。今お食事をお持ちしますから、それまでこちらでおくつろぎください」
「ありがとうございます……こんな、夜更けに」
「いえいえ。お客さんをお迎えするのは、いつだって楽しいですから」
 ヘンリーさんの妻、ソフィアさんは優しく微笑んで、私に水を出してくれた。
 テーブルについて待っていると、隣に一人の少女が座った。編んだ金髪を揺らし、興味深そうにこちらを見上げてくる。
「やあ、初めまして。お名前は?」
「エレナ。あなたは?」
「ヴィンセント。しばらくここにお世話になるよ。よろしく、エレナ」
 互いに名前を教え合った後、エレナは椅子から身を乗り出して聞いてきた。
「ねぇ、ヴィンセントさんって王子様なの?」
「……どうしてそう思うの?」
「だってそのお洋服、本に出てくる王子様が着てたもの」
 小さな指が、私のフリルシャツを指差す。きらきらと輝く瞳が愛らしい。
「王子か……まぁ、お城には住んでいたから、そう言ってもいいかな」
 辺りに誰もいないことを確認し、声をひそめて答える。
「ほんと⁉︎」
「しっ」
 私は、自分の唇に人差し指を当ててみせた。
「エレナ。私がお城に住んでいたってことは、秘密にしておいてくれないか」
「どうして?」
「こっそり抜け出してきたからね。誰かに聞かれたら恥ずかしいんだよ」
 本当は、抜け出してきたのは教会の霊安室からなのだが、少し嘘を吐いた。彼女を怖がらせたくない。
「そうなの? 分かった」
 エレナは頷いた。城を抜け出す王子など本の中には出てこないから、少し残念そうだ。
 その時、ソフィアさんが戻ってきて、テーブルにローストビーフが乗った皿とソースの器を置いた。
「ヴィンセントさん、お待たせしました……まぁエレナ、もう寝る時間よ」
「嫌。ヴィンセントさんともうちょっとお話する」
「ダメよ。お部屋に戻りましょう」
「はーい」
 エレナは不服そうに顔をしかめていたが、こちらに笑顔を向けて「おやすみなさい」と挨拶し、ソフィアさんに連れられて部屋に戻って行った。その後戻ってきたソフィアさんが、向かいの席に座る。
「すみません。うちの娘が」
「いえ。とても楽しかったです。大好きな本のことを、たくさんお話していましたよ」
「そうですか……あぁ、どうぞ召し上がってください」
「ありがとうございます」
 そう言ってフォークを手に取ると、じゅっ、と音がして、指に鋭い痛みが走った。
「うっ」
 手を離した拍子に、勢いよくフォークをテーブルに落としてしまう。
「ヴィンセントさん? どうかされましたか」
「いえ……なんでも」
 再び拾い上げたが、指がフォークに触れるたび、火傷のような痛みが走る。このまま握りしめていたら、手が焼け焦げてしまうかもしれない。
「すみません、せっかく用意していただいたお料理ですが……ご家族で、召し上がってください」
「え? どうされたんですか」
「まだ、そんなに空腹になっていなくて……」
「まぁ、そうだったんですか。ごめんなさいね」
「いえ。お水だけ、いただきたいと思います」
 苦し紛れに嘘を吐き、私はカップの中の水を飲み干した。

 おかしい。私の体はどうなってしまったのだろう。
 水を飲み、二階にある来客用の寝室で休んでいても、喉の渇きがまったく癒えない。それどころか増していくばかりだ。息が荒くなる。
 水をもらうため部屋を出ると、隣の部屋から大きないびきが聞こえてくる。私を家まで案内してくれたヘンリーさんのものだろう。通り過ぎようとしたが、なぜか私の指は、その部屋のドアノブに伸びていた。
 そっとドアを開け、ベッドに近づく。窓から差し込む月明かりに照らされ、布団を跳ねのけて、気持ちよさそうにいびきをかいているヘンリーさんが見える。
 どうしてこんなところにいるんだ。ヘンリーさんの寝顔を眺めても仕方ないだろう。頭ではそう考えているのだが、足がこの部屋から動こうとしない。体全体が、ここにある水分を欲しているのだ。
 私は、ヘンリーさんの首筋に顔を近づけた。この皮膚の下では血液が絶え間なく流れている。ごくり、と唾を呑む。もう我慢できない。
 首筋に齧りついた。一気に金属の香りが広がる。犬歯が皮膚を突き破るのが分かる。溢れ出る生温かい液体を啜る。喉の奥へ流し込むと、微かな甘味と苦味が混ざり合い、水よりも早く渇きを潤していった。
「ぅう……ぐっ」
 苦しげな声に思わず口を離す。ヘンリーが顔を歪めている。その首筋についた跡からは、血がどくどくと流れ出している。
 大変だ。早く楽にしてやらなければ。
 私は再び首筋に唇をつけ、噛み跡から流れる血を飲み続けた。そのうち血の量が減っていき、ついには全く出なくなった。
「ふぅ」
 これでもう苦しくはないだろう。そう思ってヘンリーを見ると、彼は顔面蒼白で、ぴくりとも動かなくなっていた。まさか、死んでからも人を殺すことになるとは。思わず乾いた笑いが漏れる。
「……ヴィンセント、さん?」
 背後で少女の声がした。振り向くと、部屋の外の廊下に、エレナが目を丸くして立っている。あ、と小さく声を上げた瞬間、唇の奥から生温かい液体が滲み出て、顎へと伝っていくのが分かった。
「ヴィンセントさん、どうしたの? ケガしてるの?」
 まずい。見られた。どうする。心の中ではひどく動揺していたが、口から出た台詞は、驚くほど落ち着いた調子だった。
「あぁ、なんだ。まだ起きていたのか」
「うん……お水を飲んで、ベッドに戻ろうとしてたの」
 エレナは、私からヘンリーに視線を移した。
「……お父さんに、何かあったの?」
「どうして、そう思うの?」
 小さな足が、少しずつ後ずさっていく。
「……お父さんの首に、穴が開いてて、顔も真っ青で、ヴィンセントさんの口が血だらけで、お洋服も」
「エレナ」
 怯えた目がこちらを向いた。
「エレナ。すまない。君に守ってほしい秘密が、もうひとつ増えてしまった」
「……え?」
「私は王子では無いんだ。王子がこんなこと、するはずがないじゃないか。君が好きな本にだって、こんな奴は出てこないだろう?」
 話しているうちに、少しずつ喉が渇いてきた。
「でも……お城に、住んでたって」
「お城に住んでいたのは本当だよ。でも、お城から抜け出してきたというのは、嘘だ。本当は、棺の中から、抜け出してきたんだ」
 喉の渇きが増してくる。息が荒くなってくる。目を見開いているエレナに今すぐ飛びかかりたくなるのを、必死に押さえ込む。彼女はだめだ。まだ幼い。
「……さぁ、お話は、これで終わりにしよう。部屋に戻ってお休み」
 廊下の方から足音が聞こえてくる。このままでは、ソフィアさんも来てしまう。
「ほら、夜更かしはいけないよ。早く部屋に戻りなさい」
 私は窓の鍵を開け、枠に足をかけた。ここから飛び降りれば、きっと無傷では済まない。でも、もう死体になっているのだから、もう一度死んでも構わないだろう。
「ヴィンセントさんっ」
 エレナがこちらに駆け寄ろうとする。
「来るな!」
 喉を裂かんばかりに叫ぶ。瞬間、彼女の瞳は魂を抜かれたように虚ろになり、ぴたりと足を止めた。
「そう……良い子だ。大きな声を出してすまない。もう十分お世話になったから帰るよ。さようなら、エレナ」
 そう言って、窓枠から手を離した。体が宙に浮く。
「ヴィンセントさん⁉︎」
 ソフィアさんの声が聞こえる。このまま落ちていけば足を折ると思っていたが、空中でゆっくりと体を動かし、靴の裏で着地できた。やはり、私の体には大きな変化が起きているようだった。
「は、離せ、化け物……!」
 教会の霊安室で会った男の言葉が、脳裏に浮かぶ。今の私は、本当に化け物になっているのかもしれない。いや、生前から人を殺していたから、もう既に、私は化け物だったのかもしれない。
 あぁ、それにしても喉が渇いた。町中をふらふらと歩いていると、女性が一人、こちらに向かってくるのが見える。ごくり、と唾を呑む。
 だが、喉の渇きを潤したいからといって、いきなり襲いかかる訳にはいかない。彼女の気が緩むのを待たなければ。湧き上がる衝動を抑えるため、私は女性に近づき、できるだけ優しく、声をかけた。
「こんばんは、お嬢さん。こんな夜更けにお一人ですか?」

                〈おしまい〉

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